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在る偏屈者による半年遅れのMBA留学日記、そして帰国後に思うこと
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このところ、長女と二人きりで暮らしている。

急な身内の不幸があり、妻は次女を連れて、卒業式に先立つ6月3日に帰国した。ちょうど入れ替わりに、私の母が卒業式に出るために渡米してくれたため、暫くは母を交えた3人暮らしであったが、その母も一昨日に帰国。それ以来、我々が帰国するまでの1週間は、長女と二人きりの生活となっている。

週末の帰国に向け、家財道具の売却や各種の手続きなどまだまだやるべきことが多かったり、夜は夜で会食が入っていたりと、なかなか彼女のペースで相手をしてやることができないが、長女は頑張ってついてきてくれている。母と離れてから既に1週間、きっと寂しいに違いないが、母のことは決して口にしようとしない。既にダイニングテーブルも売り払ってしまったので、子供用の小さなテーブルを囲んで二人で食事をしているが、そうした不自由にも不満を言わないので、逆にこちらが申し訳なく感じてしまう。

思えば米国に来るまでの東京での生活では、娘と過ごす時間は乏しく、少々大げさな言い方だが、人間関係も希薄だった。何しろ、平日は基本的に朝食の時間しか顔を合わさないのだから、娘がそんな父親に距離を感じ、母親べったりになっても仕方ないだろう。それが、ちょうど彼女に物心がついてくる頃に米国にきて、家族で過ごす時間が格段に増えたことで、貴重な人間関係の基礎が作られたように思う。身内の不幸は本当に残念なことであるが、こうした時間を与えられたことは、帰国してからもこの子を大切にしていくように、という親族からのメッセージなのかもしれない。
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いよいよ、卒業式の日となった。

ハーバード大学などの大型校が学部ごとに卒業式を行うのに対して、比較的規模の小さいMITでは、全校まとめての卒業式が執り行われる。専攻の違い、学士・修士・博士などの学位の違いに関わらず、全卒業生がMITの象徴ともいうべきドームの前の広場に集まって、卒業証書を授与されるのである。ただ、いくらMITの学校規模が比較的小さいといっても、それだけ集まれば卒業生の数は優に2,000名を超える。これが一人ずつ名前を呼ばれて卒業証書を受け取るわけで、必然的に式は長時間に及ぶ。

朝8時頃、まず体育館に集合。全員学位応じて指定のガウンと帽子(あわせてRegaliaというらしい)を着用。見知った顔の同級生も、ずいぶんと違って見える。ガウンの下は、当然ワイシャツにネクタイ着用…と思ったら、そうでもない。ノーネクタイは珍しくなく、Tシャツ、短パンにサンダル履き、という輩までいる。このあたりも、MITらしい。全員集合の後、工学部を先頭に、学部ごとに一列で卒業式会場に向かう。途中、街と大学の中心を抜けるマサチューセッツ通りを一部通行止めにして、通りの真ん中を歩くあたりから、ちょっと誇らしい気分になる。そしてそれらしい音楽と拍手の中を、ドーム前の芝生の広場に設けられた卒業式会場に入場していくところは、いくら斜に構えてみても、やはり晴れやかなものである。

しかし、これに続くいくつかのスピーチには、あまり期待していなかったとはいえ、がっかりさせられた。学校トップのスピーチは、ほぼ毎年話しているであろうMITの実績に、足元の不況の話題をくっつけただけの、新味のない内容であったし、ゲストスピーカーとして登場したマサチューセッツ州知事のスピーチは、そっくりそのまま他の学校にもっていっても使えるような、MITとの繋がりに乏しい内容であった(彼自身、「これが自分にとって4回目の卒業式スピーチだ」と語っていた)。あまりにも退屈だったためか、スピーチの最中には何処からともなく卒業生の席上に舞い込んできたビーチボールを、皆でトスしてまわす一幕もあった。こうした内容を知った上での予防線なのか、一連のスピーチに先立つ開会の辞では、司会を務める学校幹部から「我々は君たちがこれから話すスピーチに必ずしも興味がないことも、その内容を今後ほとんど覚えていないであろうことも知っているが、それでもスピーチはやる」という実に的を得た(?)ブラック・ジョークがあったが、それにしてもせっかく全校一斉にやるのだから、もう少し心に響くメッセージを送ってほしいものだ。

スピーチの後は、いよいよ卒業証書の授与。但し、歴史の古い学部から順番に渡されるため、50年ほどの歴史しかないスローンは、かなり後回し。証書の授与が始まってから自分の名前が呼ばれるまで、1時間半ほどかかっただろうか。それでも、授与の瞬間はやはり嬉しいものである。10年ほど前に卒業した大学の卒業式がどんなだったか、既にはっきりとは覚えていないが、この日の様子は、きっと長い間覚えているように思う。
全員分の卒業証書授与が終わると式は終了し、流れ解散のように学生とその関係者は各地に散っていく。概ね学部ごとに分かれてランチ会が設定されているので、多くの学生はそこに移動していく。スローンは改装された付属図書館前のテラスにケータリングが用意されたが、不況の影響からか、昨年に比べて料理や飲み物の内容は格段に落ちていた。そして、それが理由というわけでもないのだろうが、卒業式だけに出て、ランチ会に来ない同級生が少なくなかったことも、残念だった。日本人的には、ここで別れの挨拶をしたり、写真を撮ったりしたいような気もするが、ガイジンは割りとこの辺の感覚があっさりしているのかもしれない。というわけで、ランチ会に参加した日本人同級生で集まって、記念写真を撮影。彼らを含め、数は決して多くないが、今後も付き合いを続けていきたい仲間ができたことは、本当に良かったと思う。

かくして卒業式も終了。2年間の留学生活も、後は寮の片付けと帰国を残すのみである。


5月の最終金曜日の今日は、長女が当地のPreschoolに通う最後の日である。

昨年の9月に通い始めて以来9ヶ月、というと短いような気もするが、本人にとっては初めての集団生活、しかも日本人は一人もいない完全英語の環境で、大変だったことだろう。文字通り全く英語がわからないところからスタートして、外国人だからと言って特に英語を教えてもらうわけでもないのに、9ヶ月ですっかり友達や先生と英語のコミュニケーションが取れるようになったあたり、子供の可能性というのは凄いなあ、と感心させられる。

ところで最終日といっても、学校は何か特別なことをやってくれるわけではない。日本人的な感覚からいうと、お別れ会をやってくれたり、せめて皆の前で先生から一言アナウンスがあったりしても良さそうなものだが、米国(少なくともCambridge)ではそういったものは一切ない(勿論、先生と児童との雑談の中で「○○ちゃんは金曜日でサヨナラするのよ」みたいな話はあるが)。そのかわり、保護者がPreschoolに来て、お別れ会的なものを自ら演出しなければならない。先達の経験などを参考に、我々も予め先生や子供たちへのメッセージカードを用意し、今日はドーナツを買って、ランチタイムの後にPreschoolを訪れた。

我々との手短な「打ち合わせ」の後、園長先生(と今更漢字で書くと違和感があるが)が皆にちょっとしたセレモニーがあることを告げる。
長女がドーナツの入った箱を持って子供たちの間をまわり、ドーナツを配る。子供たちは長女が去ることよりも、ドーナツに必死。
ドーナツを配り終えると、用意したメッセージカードを長女から一枚ずつ4人の先生に渡す。もっともその頃には走り回る子供を取り押さえようと、先生たちはバタバタ。
そして全員で記念写真を撮って、はい、おしまい。
eastcambridge.jpg
先生や子供はお昼寝の準備にぱっと散ってしまい、長女自身も「早く帰ろ」とさばさばした様子。
あっさりしているというか、あっけないというか。
それでも、こちらは親なので、ドーナツを配ったりカードを渡したりする娘の姿を見ていると、涙腺が緩みそうになる。

将来この経験が、家族にとって先々どういう影響を及ぼすのか、はっきりとは分からないが、少なくとも長女にとって意味のある財産になることを願ってやまない。




引越しの翌日、新居と娘の幼稚園を探すために、単身東京へと飛んだ。マイレージを利用すればほとんどタダで往復できることもあり、折角なので新しい棲家と街を自分の目で見て選ぼうという判断である。

ワシントン経由で成田空港に到着。到着後すぐに感染防止用のマスクとコートを身に着けた検疫間による簡単な検査と問診が機内であって、到着1時間後にやっと機外に降り立つ。入国審査、税関を抜けてJRの駅へと進み、鉄道で東京駅に向かう。金曜日、ちょうど通勤客の帰宅時間を迎えた東京駅の人ごみは、その半分くらいがマスク装備。同じ黒髪、同じような格好の日本人が、白い同じようなマスクをして、虚ろな目だけ覗かせながら、同じように俯き下限でJRの改札口に一方的に吸い込まれていく。ずっと日本にいると何とも思わない光景なのかもしれないが、久しぶりに帰国してみると、ぞっとする光景である。

明くる土曜日から、週末の二日間をかけて、予め当たりをつけておいた20件ほどのマンションを訪ね歩く。5社ほどの不動産屋に紹介してもらったが、皆口を揃えて言うのは、賃貸物件は分譲物件に比べてまだ引き合いがあるものの、春先以降業況はより厳しくなった、ということ。分譲物件が賃貸に流れてきて、供給は増える一方、大手企業が転勤を抑制したり、家賃補助を削減したりしている関係で、需要は減っているのだという。既存物件の値崩れはまだ本格的に始まっていないが、5%程度の値引き幅で、そろそろと出始めているらしい。また豊洲などの臨海開発地域では、マンションや商業施設の建設ラッシュがペースダウンし、計画変更、規模縮小などが相次いでいるという。
また幼稚園選びでは、今のところ保育園で英語を使っている娘の現状を踏まえて、英語ベースの施設を数件訪ね歩いたのだが、投資銀行などの外国人駐在員がどんどん帰国していることもあってこうした幼稚園は都心部を中心に減少しているらしい。そして職にあぶれた教師たちが、まだ存続している施設に次々に売り込みに来るとのこと。

そして今日は25日(月)。多くの日本企業では給料日である。案の定、街中のATMの前は、どこも例外なく長蛇の列が伸びている。かつて丸の内で勤務していた頃に見たものに比べるとどの列も長いような気もしたが、気のせいかもしれない。
ただ、夜の驚きは、気のせいではなかった。会社の上司と西麻布で食事をして、10時過ぎにタクシーで六本木通りを溜池方面に走ったのだが、明け方かと思うくらい、人も車もいない。流石に六本木交差点付近まで行くと多少の人通りはあったが、それでも私が通りかかった瞬間に六本木通りの沿道を歩いていた人の数は、全部で100人に達するかどうか、というところだろう。2年前、いや1年前でさえ、夜中のこの界隈は、酔客が路上に溢れて空車タクシーの奪い合いを繰り広げていた。私自身、車が拾えずに30分近く待ったこともあるし、首尾良く捉まえた車に乗ろうとしたところを、「どけ馬鹿、それはオレが先に呼んだんだ」と凄まれたこともある。そんな話を運転手さんに向けてみると、「ああ、そんなのは、もう今や夢物語ですよ。いくら月曜日ったって、給料日でコレなんですから。銀座、新宿、赤坂、みーんなこんな感じですよ」と自嘲気味な返事が返ってきた。

幸い、良さそうなマンションは見つかり、契約する方向で話を進めているが、それよりも不況下の東京の余りの変貌振りに、言葉が見つからないほどの衝撃を覚えた。これからそこに戻る我々は、一体どうなるのだろうか。もちろん、自らどうにかしていかなければならない、という答えしかないわけだが、それでも想像以上の覚悟が必要であることは、間違いなさそうに思えた。
・・・頑張ります。



朝から、日本に持って帰る予定の荷物のほとんどを発送した。
日本までの荷物輸送は、船便の場合1.5~2ヶ月を要するので、7月からの東京での生活再開に間に合わせるためには、今がギリギリのタイミングとなる。
娘二人の妨害をかわしつつ、前日までに妻と積み上げた30箱のダンボールが、ヤマト運輸の二人の男性の手で、あっという間に搬出された。Moving Saleで家具類を売っていることもあり、後に残ったのは随分さっぱりとした部屋。私の勉強部屋などは、もうほとんど空っぽである(もう勉強しないからいいけど)。

いよいよ帰国が近づいてきたなあ、と思う。




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PROFILE
HN:
Shintaro
性別:
男性
職業:
経営コンサルタント
趣味:
旅行、ジャズ鑑賞
自己紹介:
世の中を素直に見ることが苦手な関西人。
MITスローン校でのMBA、プライベート・エクイティでのインターン、アパレル会社SloanGearの経営、そして米国での生活から、何を感じ、何を学ぶのかー。

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