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「 Travel 」
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初めて訪れたブラジルは、想像以上に印象的で、魅力的な土地だった。

まず改めて驚かされたのが、資源の豊かさ。農畜産物から森林資源、化石燃料、鉱物資源など、ほぼすべてが自給できる以上の産出量に恵まれている。金とダイヤモンド以外はほぼすべてそろう、という話も聞いた。ブラジルと言えば、海外からの輸入品に法外な関税をかけて国内産業を守る保護主義的な貿易政策でも知られるが、これだけ豊かな資源に恵まれていれば、いざとなれば鎖国してもやっていけるわけで、その政策判断も理解できる。同時に、国としてのさらなる成長ポテンシャルを感じずにはいられない。世界一の産出量・生産量を誇るものも多く、例えばその代表的なものが砂糖だろう。世界で砂糖の生産量が消費量を上回る国はブラジルとタイしかないそうだが、ブラジルのその生産量は圧倒的で、甘味料として使われるだけでなく、一定割合はバイオエタノールに加工される。ブラジル国内で販売・消費されるガソリンにはこの砂糖由来のバイオエタノールが必ず一定量配合されている。

次に、国の大きさ。国土面積で世界5位、人口規模で世界7位と、数字でみればもっともなことながら、実際に訪れてみるとその大きさに圧倒される。なにしろ面積的には欧州がほぼすっぽり入るわけで、旅の中で少し交流する機会のあった元サッカーブラジル代表のエジミウソンによると、サッカーのブラジル選手権は英国やスペインなどの国のリーグと比較されるべきではなく、欧州のチャンピオンズリーグの方がイメージとしては近い、ということだった。この国の大きさと、前述した資源の豊かさをあわせて考えると、世界10位のGDPというのも腑に落ちる。

そうした国としてのマクロな豊かさの一方で、貧富の格差の大きさも凄まじい。飛行機の窓からみると良く分かるが、城のような巨大豪邸もある一方、ファベーラと呼ばれる貧民街も、ほぼすべての町に一定の規模で存在する。当地を案内してくれた、ブラジル在住11年の友人によると、ブラジルの貧富の格差は世界の貧富の格差とほぼ同じだという。つまりブラジルの大富豪は世界水準の大富豪で、例えば北部のある州では二つの家族が同州の富のほぼすべてを独占しているというし、サンパウロではお金持ちが渋滞を避けてヘリで移動するため、同市は世界で一番ヘリポートが多い町でもあるという。一方でブラジルの貧困層の貧しさは世界の最下層のそれに等しく、一日一ドル以下で生活する人も少なくない。そのためブラジルには、いわゆる出稼ぎ労働者がほとんど存在しない。周辺国と言語が異なる(南米ではブラジルだけがポルトガル語)影響もあろうが、安い労働力が国内に十分存在することが大きい。例えば家政婦がいる家庭も多いが、そうした人たちはファベーラからやってくる。

こうした貧富の格差を反映してか、商品の価格格差も大きい。食事は、高級レストランの価格は先進国のそれと変わらないが、安さを求めればいくらでも安いものがあるという。クルマも、ブラジル国内で生産されるものは海外とあまり変わらないか少し安価なくらいだが、輸入車となると関税の影響で法外な値段になる。携帯電話のように輸入品しかないものはとても高価で、iPhoneで30万円以上するなど、中間層以上でないととても手が出ない。

携帯電話と言えば、街でいわゆる「歩きスマホ」をしている人は見かけない。ひったくられてしまうからだ。携帯電話一つで国民平均月収の何倍もするわけで、皆が宝物をもって歩いているようなもの。携帯を耳に当てて通話しながら歩いていたら、脇をすり抜けたバイクが奪っていった、というような話もある。もっとも、携帯電話をめぐる犯罪はひったくりに限らず、強盗も少なくない。前述の友人は、夜に少し暗い街角で携帯電話を触っていると、銃のようなものを突き付けられて、携帯を奪われたという。人気飲食店で入店を待つ行列に銃を持った強盗が襲い掛かり、全員の携帯電話を奪うこともあるし、バスに強盗が乗ってきて、乗客や運転手の携帯電話を全て奪って降りていく、ということもあるらしい。

少しネガティブな方に話が振れたが、先に述べた資源の豊かさと先人の努力により、食材はとても豊富で、食卓を鮮やかに彩ってくれる。肉は赤身が好まれるようで、牛ランプが一番のご馳走。厚切りをシンプルに焼いて豪快に食べる。海産物も豊富で、生魚も多く売られているが、ポルトガルの影響で、タラを塩漬けにして乾燥させたバカリャウも好まれる。滋味に驚かされたのが野菜。土地が肥えているからか、色合いが鮮やかで歯ごたえが良く、味も濃い。もともとは、野菜と言えばケールやキャッサバ、ビーツくらいだったそうだが、日系人が葉物を中心に野菜栽培を広めたという。そのお陰で、食卓の彩りは米国などとは比較にならない。そして最近は、アマゾン地域固有の食材に注目が集まる。アサイーなどは日本でも健康食材として良く知られるが、それ以外にもピラルクーなどの淡水魚やアリなどの昆虫、日本では見たことのない野菜やフルーツなどが食されている。

日系人と言えば、ブラジルは世界最大の日系人を擁する国である。その数およそ200万人。1908年の正式移民開始以来、およそ26万人の日本人がブラジルに渡り、コミュニティと文化、資産を形成してきた。疫病や災害と戦いながら農地を切り開き、社会的地位を向上させ、その勤勉さから周囲のリスペクトを獲得した先人の道のりは、サンパウロの日系人街リベルダージにある日本移民資料館で紹介されている。ブラジルが他の移民国家と違って特徴的なのは、中華系とインド系の移民がとても少ないこと。アジア系移民の大半は日系人である。勢い、中華料理店やインド料理店よりも日本料理店の方が多い。また、日系人は勤勉な方が多く、全体でみれば人口の1%程度に過ぎない日系人が、サンパウロ大学などの有名大学にいくと1割前後に達するという。

最後に音楽。ジャズファンとしては、ブラジルといえばボサノヴァ、と連想するところだが、今のブラジル人にとってのボサノヴァは、日本人にとっての演歌のような「昔の音楽」らしい。サンパウロでもリオデジャネイロでも、ボサノヴァの生演奏を聴かせてくれるような店は、なかなか見つけるのに苦労する。「イパネマの娘」で有名なリオデジャネイロのイパネマ地区には、この曲が生まれるきっかけとなった「ガロータ・ヂ・イパネマ(イパネマの娘)」というバーが今も残るが、この店で聴けるのはロックかブラジリアン・ポップス。ようやくその通りを挟んだ向かいの店で、ボサノヴァを聴くことが出来た。

僅か一週間ほどの滞在であったが、大国ブラジルの片鱗に驚かされ、楽しまされる旅であった。この貴重な機会を勧めてくれ、また現地でアテンドしてくれた友人に、心から感謝したい。
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ふと思い立ち、伊豆の松崎まで車を走らせてみた。
週末を費やすと思われた仕事が早く片付いた、河津桜や梅の咲く季節になった、雨模様で道がすいているように思われた、伊豆の山道を車で走ってみたかった、などなど、いろいろな理由や言い訳があるが、敢えて一つ挙げるとすれば、この西伊豆の南端に近い松崎という町に以前から興味があったからだろう。
松崎は、なまこ壁の町、『世界の中心で愛を叫ぶ』のロケ地としても知られる町だが、私にとっては城山三郎が『祖にして野だが卑ではない』で描いた石田礼助の出生の地として印象に残っていた。その小説をはじめ、文学で描かれる西伊豆は概して貧しく、耕地に乏しく岩場に張り付くようで、交通手段も険しい山を越えるか舟で海を行くかしかない、という様子であったが、そんな中で松崎は、町中心部に流れる那賀川・岩科川により、伊豆半島西側最大の平野と耕地を有し、「伊豆ではいちばん早くできた町」ともいわれていた。町はずれの旧岩科村には、長野県の開智学校に並ぶ明治期の先進的な学校建築かつ重要文化財である「岩科学校」が残っていて、とても瀟洒なイメージがあった。
真鶴から車で向かうと、松崎まではたかだか70-80kmなのだが、道中はまさに「天城越え」で、ノンストップでもたっぷり2時間はかかる。南北の道路こそ開発が進む伊豆半島であるが、東西の道は昔ながらの峠道で、熱海から大仁の方に抜ける山科峠などは崩落で通行止めのままである。
伊豆半島の近代史は市町村合併の歴史であるが、いわゆる「平成の大合併」がそれをさらに加速し、今では7市6町にまで集約された。そのうち松崎を含む半数は、河津町、下田市などの旧来の名称を残しているが、5つは伊豆市、伊豆の国市、東伊豆町、西伊豆町、南伊豆町と「伊豆」を冠しつつ「近世的」な名称に移り変わってしまっている。伊豆長岡、韮崎、大仁、修善寺、土肥、賀茂、湯ヶ島などの魅力的な自治体名が消えてしまったのは、とても寂しい。北米ですら、原住民の部族や町の名前を大切に残したりするのだが、歴史がある国ほど、その歴史にありがたみを感じないものなのか。
もっとも、市町村が減るのは人が減っているからで、車窓からみえる景色にはその影響の方が色濃くみえる。村々には空き家が多く、道沿いの土産物屋や飲食店も、営業しているものの方が少ないくらい。浦々にみられる温泉街も、ほんの中心部を除いて営業を終えてしまっている。明治13年に村人の寄付を集めて建てられた擬洋風建築の岩科学校も、昭和になって隣に鉄筋コンクリート造の岩科小学校を開設するに至ったが、その小学校も平成18年には閉校になってしまっている。
それでも松崎の町は、確かに西伊豆では他にみることのない、個性豊かな佇まいと奥行きのある、街歩きの楽しいところであった。耕地が多いだけでなく、養蚕・製糸も盛んだったようで、「伊豆松崎相場」と言われた早場繭の価格は全国の標準相場として海外にも知られるほどであったとか。歴史と富の蓄積があり、空襲を免れた町は、国を問わずやはり趣が違うものだ。旧市街の街路は狭く、見通しも悪いが、それが魅力でもある。街道筋にできた町ではないためか、いわゆる「目抜き通り」的なものがはっきりせず、駅がないために「駅前」もない。商店や宿、食堂などが、旧市街(といっても一周数kmくらいの規模だが)のそこここに点在していて、楽しい。陸運より海運が重要だったのだろう、立派な旧家も街中より川沿いに多く残っている。温泉も複数湧出しているようだが、旧市街は規制があるのか巨大かつ無機質な「温泉ホテル」的なものがなく、温泉地特有の景観破壊からも免れて、街の魅力をとどめることに役立っていた。
岩科学校も、木造建築の温かみの伝わるとても愛らしい建物で、明治期の発展性と楽天性が柱や梁に染み込んでいるようであった。思えば私自身、小学校も高校も在校中に新しい校舎に建て替わり、大学や米国の大学院であるスローンも卒業後すぐに建て替えられるということを経験しているが、古い校舎というのは不便でもそれだけで郷愁を掻き立てるものである。それを後世に伝えるべく保存・公開していることの素晴らしさを、板張りの軋む廊下を歩きながら、噛みしめていた。

10年ぶりにワシントンD.C.を訪れた。
10年は、この首都の雰囲気を変えるには十分な長さの時間であったらしい。
思えば10年前はまだ駆け出しのローカルサービスであったfacebookが、何億人というユーザー規模のグローバルなサービスになり、その情報漏えい等が国会で議論されるに及ぶというのは、誰も想像すらしなかったであろう。

ホワイトハウスの周囲のバリケードは、以前よりも一回りか二回り大きくなり、ホワイトハウスに一般人は近づきにくくなっていた。
街の土産物屋では、以前売っていたオバマ人形をはじめとする「大統領関連グッズ」は当然ながらモチーフにすべき人物の交代により退場し、トランプ人形や関連グッズへの姿を変えていた。但しそのトーンは、オバマ就任の際には明るく、熱狂的で、希望と誇りに満ちていたのとは対照的に、シニカルで、ちょっとしたブラックジョークのようなトーンに感じられた。
一国の元首が国民からの攻撃を恐れてバリケードを張り巡らせ、一方で国民からはブラックジョークのようにみられる、というのは、明らかに何かがおかしく、この大国の病を感じざるをえない光景であった。

せめてもの救いは、街を行く人々の多様性、スミソニアン博物館の入場が無料であること、そして博物館を湛える公園の美しさとおおらかさが、10年前のそれと何も変わらなかったことだろうか。10年後もこうした素晴らしさは維持されていてほしい、と心から思う。

5月初頭のトロントは、さすがに雪模様こそみられなかったが、まだ初春の装いであった。
1週間ほどの滞在のうち晴天は1日だけと天候に恵まれなかったこともあるが、気温が10度を超えることはあまりなく、コートやダウンジャケット、手袋といったアイテムもまだ街には多くみられた。それでもところどころに桜やチューリップが咲き、長い冬を抜けた人々の表情は穏やかで明るくみえた。

今年で建国150周年を迎えるカナダにあっては比較的古くまた最大の都市でもあるトロントは、環境や治安の良さもあって移民が絶えず(今でも人口の半分以上は第一世代移民とのこと)、人口成長が続き、北米でも最大の都市のひとつになっている。しかしながら、ニューヨークやロスのような猥雑な混沌さはあまり目立たず、比較的落ち着いた佇まいであるのは、トロント島のような自然がすぐ目の前に残されていることや、英仏両国語を母国語とするカナダ独特の異文化や来訪者への寛容さによるのだろうか。中国人街、ギリシア人街、イタリア人街といったエスニックゾーンは存在するものの、トロントで感じられる人種や文化を超えた人の融合の度合いは、米国の都市でみるそれよりも自然で、健全であるように感じられた。

この国においては「古い」とはいえ、世界的にみればまだまだ新しい街でありながら、市庁舎や州庁舎、大学など、程よく枯れた建物が街に魅力を添えてくれるのは、これまで戦火に巻き込まれたことのない大都市としての特権だろう。特にオンタリオ州庁舎は、脇に大学や他の庁舎を従えながら、良く計画された街路に囲まれて、街の中心に風格を与えていた。学生の多いその界隈で最も目立ち、便利の良いオフィスビルに、Airbnbが入居していたのも印象的であった。湖畔の大きなビルに看板を掲げるIT企業たちに、君たちはもう古いよ、と言っているかのように。

オンタリオ湖の北岸に展開した街の少し沖合には、トロント群島がある。湖畔から目と鼻の先の距離で、近いところでは100mほどしか大陸と離れていない島ながら、敢えて架橋せずにボートでしか渡れないようにしてあることが、この島の自然と静けさを保ってくれている。ボートに15分ほど揺られて渡る島にはわずかながら住人もいるが、島のほとんどの部分は公園で、ヨットハーバーや小さな遊園地、プロペラ機専用のローカル空港などもあるが、いずれも散策する人をまったく邪魔しない。自動車が走らないためか水鳥などの動物が多く、人々も穏やか。水辺から眺めるトロント市街の全景は、なかなかの絵になる。

ほとんどの市民が英語で生活する中でも英仏両国語併用に拘り、建物の新陳代謝が進む中でも歴史を大切にし、自動車社会でありながら島には橋を架けない。こうした拘りと「無駄」は、やはり都市の魅力には必要なのだと、改めて教えてくれる街である。



仕事で、インドのニューデリーを数日間訪れる機会があった。
恥ずかしながら、初めてのインドである。
短い滞在ではあったが、幾つかの角度から、同国の噎せかえるようなエネルギーと、大きな矛盾を体感することができた。

インド最大の二輪車メーカー"Hero Motors"の幹部の方がスピーチで、インドを"Extreme diversity"と称されていたが、私が今回感じた同国の印象を一言で表すと、この表現に至るように思う。それは単に同国が、12億人を超える人口を要し、22の「公用語」と数千の小言語が話され、州や地方によって文化も大きく異なる、という意味だけではない。貧富の差、学問の差、官民の差、政治観の差、生きる目的や時間軸の差など、実に様々な軸で、信じられないほど広いスペクトラムの両端に生きる人々が、ニューデリーという街の中でさえ混在している、という意味である。

ニューデリーの一角のスラム街を訪れ、そこに暮らすある家族の自宅にお邪魔する機会があった。どこかの農村から職を求めて流れ着いたというその家族は、両親と子供が5人で、4畳半が二間くらいの家に住んでいる。父親は街の屋台でフルーツを売り、4人の娘のうち3人が内職の裁縫をし、あわせて一家で月に5,000円ほどを得ている。うち1,500円ほどは家賃に消え、残されたお金で細々と暮らす。内職をする娘3人は、学校に行ったことがない。農村から不法に流入してきたために居住証明がなく学校に行かせられない、と母親は話していたが、一人息子と末の娘は学校に言っているということだったので、辻褄が合わない。恐らく、良く言えば二人の就学を他の家族で支えている、悪く言えば3人の子供を労働力として搾取している、ということだろう。内職をする3人の娘に将来の夢を聞いてみた。曖昧な笑みが返ってくるだけで、要領を得ない。やっと一人の子が「お医者さん」と言ってみたが、即座に母親から「学校もいってないのに、なれるわけないでしょ」と一蹴され、あわてて「学校にいくこと」と言い換えていた。

一方で、インドの一流大学を出た(あるいは出ようとしている)若者15人ほどと、英国生まれのインド人起業家との討論に、参加する機会もあった。
こちらの学生たちは、当然英語を自在に操る(前述のスラムの家族とは通訳を介してヒンディー語で会話)し、議論を重ねる力が本当に長けている。独り言のように自分の意見だけ延々というのではなく、きちんと相手の意見や質問を踏まえて、主張を展開する。意見の論理的構成力や論旨の明快さはさすがに個人によってバラツキがあるが、皆一様にレスポンスが早く議論が途切れないので、次第に言いたいこともみえてくる。彼らの視線は、5年から10年の先にある。彼らは皆、自らの才覚に自信と責任が強く、誰かに何かを言われてやるのではなく自分の志す道を進み、チャンスをつかもうと必死である。恐らく相当の苦労をして、それだけの学問を修めるに至ったのだろうし、それを可能にしてくれた家族への強烈な責任感もあるのだろう。日本的にいえば、協調性がないとか、謙虚さがないとか、そういう評価を受けるかもしれないが、我々に対する敬意も忘れておらず、必ずしも嫌な感じはしない。むしろああいう若者が、湧いて出るように無尽蔵に輩出され、一部は米国や英国でも教育を受け、インド国内に限らず、中国や中東、あるいはアフリカなど、新興国市場で貪欲に活躍していく姿には、計り知れないポテンシャルと脅威しか感じない。

そして、同国を導くはずの中央高級官僚は、こうした停滞と飛躍、苦難と希望、搾取と投資が渦巻くインドの民衆と、まったく乖離した精神世界に生きている。簡単な昼食をご一緒させていただいた50歳前後とみられる財務省秘書官は、貧困にあえぐスラム街の人々にも、輝かしい可能性をもつ若い人材にも、さして興味がないようである。多弁でユーモアに富んだ彼の口からでる言葉は、民主主義の素晴らしさ、皆が自分の意見をもつインド人の素晴らしさ、国連やWHOなどの国際機関の限界、などの大所高所の話ばかり。具体的な各論になると、とたんに議論がおぼつかない。例えば格差と貧困の解消について問うと、「全国民に、コメと麦と食用油を支給するのはどうか、と考えている」と、まるで突拍子もなく、また国民の真のニーズを理解しているとも思えない発言が出る始末。インドの国家官僚は、給与も高くないが、20代で日本の国家公務員一種試験にあたるような試験にパスすると、その後の業績や活躍に関わらず、一生それなりのポジションを巡りながらの雇用が確約される。彼自身、それを認めつつ、「だから我々は自由に議論できるのだ」と半ば開き直っている。今後の天文学的な金額が投じられる同国のインフラ建設などが、こうした人々に牽引されるのかと思うと、恐ろしくなる。

日本にいると、何となく「遠い」感覚でいたインドであるが、こうした極端な多様性を包含しながら、確実に成長している。どこかで矛盾が爆発するのではないか、とか、そういつまでも高成長が続くわけではない、とか、懐疑的な目を向けることは簡単だが、我々の世代もさることながら、我々の次の世代の日本人は、間違いなく彼らのような連中と闘っていく必要がある。そして彼らの矛盾が爆発することがあれば、それは既に一つの国民国家の中だけの限定的事象ではなく、地球人口の20%以上が関与する社会現象として、影響は世界中に拡散されるだろう。いや、「影響の拡散」という点では、既に恐るべきペースで、随分以前からそれは始まっているのかもしれない。日本の学校教育や企業教育は、こうした現実を次の世代に正しく教えているのだろうか。インド社会の張り詰めるテンションへの疑問とともに、そんな疑念も強く感じた滞在であった。


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PROFILE
HN:
Shintaro
性別:
男性
職業:
経営コンサルタント
趣味:
旅行、ジャズ鑑賞
自己紹介:
世の中を素直に見ることが苦手な関西人。
MITスローン校でのMBA、プライベート・エクイティでのインターン、アパレル会社SloanGearの経営、そして米国での生活から、何を感じ、何を学ぶのかー。

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