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「 Life 」
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遂に、日本に帰国する。
ワシントン経由で、ほぼ丸一日かけての移動である。

先日書いたように、事情があって妻と次女が先に帰国してしまったので、この長距離移動は長女と二人での旅行である。合計100kgほどの荷物を抱え、各種の手続きもあるため、彼女の求めるタイミングで構ってやることがなかなかできなかったが、長女はほとんど文句も言わずに、良く我慢してついて来てくれたと思う。成田まで1時間くらいのところになると、さすがに疲れてきて、空港に着いたら抱っこしてくれ、などと言い始めたが、いざ着陸して父の手が塞がっていることを理解すると、「疲れていないよ、お父さんは大丈夫?」などと言って、自分で歩いてくれたりもした。少々泣き虫で、内向的なところもあるが、健気で良い子だと、親馬鹿ながら思う。
こうした娘とのやり取りに忙しかったこともあって、2年間の留学生活の場から恒久的に離れてしまうことへの特別な思いはあまり湧き上がってこなかったが、感傷的にならなかった(なれなかった)理由は、もう一つあったように思う。
それは、帰国の途で感じた、日本人のモラル、マナーについての問題意識である。

まだ東京に生活の基盤がないため、一先ず私の両親の住む大阪に帰ることにした今回の帰国では、ボストン~ワシントン、ワシントン~成田、成田~大阪という3つのフライトを乗り継いだ。当然ながら、後者のフライトに行くほど、日本人の比率が高くなる。そして日本人の比率が高くなるほど、飛行機の乗務員や空港職員の対応は親切になるのだが、一般乗客の態度は、非常にあくせくして、友好的ではなくなっていった。大量の荷物を抱えて旅行する父子は、移動に時間がかかるし、場所はとるし、周りの乗客からみればはっきりいって迷惑な存在だろう。それでも、米国にいる間は(あるいは周囲の人の多くが米国人である間は)、みな道を譲ってくれたり、ドアを開けてくれたり、席を譲ってくれたり、娘に微笑みかけてくれたりと、人としての情をかけてくれた。それが我々の祖国である日本に来た途端に、ほぼ消滅してしまった。飛行機の搭乗、降機では、みな子供を押しのけるようにして我先にゲートに向かい、エレベーターも子連れでも身体障害者でもない「普通の」乗客がワーっと占拠してしまう。これには、米国の保育園で、米国的なマナー(たとえば後に続く人のためにドアを開けてあげる、道を譲る、など)を自然と学んできた長女も面食らったらしく、「みんな通してくれないねえ」と呟いていた。そんな娘に、「アメリカとは違うんだよ」と諭しながら、寂しいような、情けないような、なんともいえない気持ちになった。
「ほら、これが日本だよ、綺麗で、みんな親切で、良いところでしょう」
我が子にそう胸を張って言い切れないとは、なんということか。
日本は、こんな国だったのだろうか。
米国に渡ったときは、米国人の横柄な態度に辟易したものだが、実は日本人の方がせこくて嫌らしかったのだろうか。
日本に帰国してしばらく生活していると、やはり日本や日本人は素晴らしい、と思えるのだろうか、あるいは更に落胆させられるのだろうか…。

このブログは、MITスローンに留学していた間に、見聞きし、体験し、考えたことを記しておく場であったので、卒業式の項で筆をおこうと思っていたが、上記の疑問(不安?)に対する気づきを書き留めておくべく、もう少し続けることにしたい。
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朝から、日本に持って帰る予定の荷物のほとんどを発送した。
日本までの荷物輸送は、船便の場合1.5~2ヶ月を要するので、7月からの東京での生活再開に間に合わせるためには、今がギリギリのタイミングとなる。
娘二人の妨害をかわしつつ、前日までに妻と積み上げた30箱のダンボールが、ヤマト運輸の二人の男性の手で、あっという間に搬出された。Moving Saleで家具類を売っていることもあり、後に残ったのは随分さっぱりとした部屋。私の勉強部屋などは、もうほとんど空っぽである(もう勉強しないからいいけど)。

いよいよ帰国が近づいてきたなあ、と思う。




先週の木曜日から、Moving Saleを行っている。
日本への引越しに向けて徐々に準備を進めているが、大物の家具や家電などは安物の割りにその大きさから送料が高くつくため、ほとんど現地で処分して、日本には送らないつもりでいる。こういう際、米国ではMoving Saleといって、不要になる家具などを格安で売りに出す。我々も周囲の例に倣ってやってみたのだが、想像以上に反応があって、驚いている。
インターネットを使って一般に広告することもできるのだが、得体の知れない人々が家に家具を見に来るのもあまり気持ちの良いことではないので、まずはMITコミュニティー内での広告に限っている。具体的には、スローンの現1年生および新1年生の多くが加入している非公式メーリングリストにメール広告を流し、MITの代表的な寮5箇所にビラを貼った。
それから5日が経ったが、毎日のように問い合わせがあり、テレビ、勉強机、本棚、ソファ、電子レンジなど、売りに出した家財道具の半分くらいが売れてしまった。価格を安めに設定したので、売りに出したものがすべて言い値で売れたとしても12万円ほどにしかならないのだが、それでも我々にとって不要なものが他の学生の生活に役立ち、かつリサイクルショップに持ち込むよりは良い値段で現金として我々の懐に入ってくるのだから、素晴らしい。
我々が使っていた家財道具の半分以上も、同様の方法で卒業したスローンの学生から購入したものであり、それがまた新たな持ち主の下へと旅立っていく。一般に米国の学生の方が日本の学生よりも経済的に豊かではないという事情もあるが(実際、買い手に日本人はいない)、パーティーなどで紙皿や紙コップを大量に消費し大量に捨てる米国人が、こういうところではモノを大切にする仕組みを持っていることは、多少意外でもある。
ただ、MITコミュニティー内では流石に少ないかもしれないが、小切手社会の米国では、こうしたセールの支払いにおいても買い手が小切手を希望することがあり、うっかりそれを受けてしまった売り手が騙されることもあるという。そういう話もあるので、「支払いは小切手でいい?」と聞かれても、”I would appreciate the cash payment”と答えている。Noの二文字で答えるよりは多少婉曲的だが、それでも「オマエは信用できない」と言っているようなもので、ちょっと気が引けないでもない。ただ、こういう場合、母国語でない英語のやり取りの方が、かえって気が楽であったりする。
そんなわけで、ポケットの中は、普段ほとんど持ち歩かないキャッシュでいっぱい。留学生活最後のゴルフ代やお土産代などを賄ってくれている。感謝感謝。




ホスト・ファミリーのHLさんご夫婦を、手巻き寿司ランチにご招待した。
HLさんご夫妻については、このブログでも2度ほど書いたが、米国の良き中流階級と表現すべきか、ボストン圏の都心から少し離れた歴史ある住宅地に居を構え、知的・経済的水準の高いゆったりとした生活を送られている、素敵なご夫婦である。MITの紹介で知り合うことができたこのご夫婦とは半年に1回ほどお会いして、そのたびにご主人の日本に対する深い造詣と、米国の生活の物質的・精神的・文化的豊かさに感銘を受けてきた。いよいよ我々がボストンを離れる日が近くなったため、最後くらい狭い我が家にご招待しようということで、この日のランチになった。

幸い天候にも恵まれ、良い魚(特にこの日はサーモンが最高!)も手に入り、決して豊かではない学生用アパートではあるが、食卓の上だけはそれなりに豪華だったように思う。いつもHLさん宅にお伺いした際に遇されるように、我々も最初は「レセプション」としてソファーに腰を下ろし、お茶か食前酒とともに互いの近況を話し合い、頃合を見計らって食卓へ…、という流れでご接待したかったのだが、やはりどうも慣れないもので、動きや会話がぎこちない。HLさん宅に招かれると、「レセプション」で30分程度は過ごすのだが、この日は10分か15分でガマンできなくなり、食卓へどうぞ、となってしまったような気がする。
会話の中心は、ご夫婦の近況、特にご主人が先月仕事で日本にいらっしゃっていたときの話と、小学校教師をされている奥さんが教育視察団のメンバーに選ばれて来月中国に行く話。医療機関が導入するITシステムについてコンサルティングを行っているご主人は、東京と前橋を中心に数週間日本に滞在されたらしいが、東京では時間があれば博物館や美術館を回っていたという。それも、新宿?にある日本刀専門の博物館だとか、東京に住んでいた我々でも知らないようなところにまで足を伸ばされていて、彼の日本への興味にまた驚かされる。博物館といえば、というところから、話は米国内の日本美術展示に移り、ボストン北郊のセーラムにある美術館が話題に上った。明治時代に大森貝塚の発見などで活躍したモース博士が同地の出身で、日本滞在時に収集した美術品などを持ち帰ったのが同美術館の展示の始まりなのだそうだが、かつては浮世絵や陶器、甲冑などの「よくある」日本美術だけでなく、明治期の庶民の様々な生活道具が展示されていたそうで、ご夫婦はそれに大変興味をひかれていた。ところが、現在の館長になって展示方針が変わり、もっと「芸術品らしい」ものを展示しなければならない、ということで、それらの生活道具はすべて倉庫に仕舞われてしまったのだとか。残念に思ったHLさんご夫婦は、その旨を知人である同館の保管係員に伝えると、その係員は大いに同感であるとして、ご夫婦を特別に倉庫の中に招き入れてくれた。そこには、展示されていた以上の種類の生活道具が所狭しと保管されていたが、HLさんが最も驚いたのは、ペリー提督が浦賀に来航した際に将軍から贈られたという螺鈿の箪笥であった。HLさんは必ずしも日本美術に詳しいわけではないものの、歴史をご存知であるが故に、その箪笥の文化的・歴史的重要性はすぐに理解された。そしてその箪笥が人々に展示されることなく倉庫に眠っていることを非常に遺憾に思われたそうだが、現在ですら必ずしも注目されていないその箪笥、ペリーはどうやらそれ以上に無頓着であったらしく、引出しが開けられた形跡がないのだという。それは残念だ、という話が盛り上がり、勢い「開けてみよう」ということになって、係員が開けてみた。すると中からは、いかにも日本人ウケしそうな、こまごまとした無数の装飾品が現れたのだという。お話を聞きながら、自分もその「忘れられた」箪笥を開けてみたような気になり、またそれが今自らが暮らす場所のすぐ近くにあるという事実も重なって、非常な興を感じざるを得なかった。歴史や人の出会いというのは、実に面白いものである。

2時間ほどの滞在で、HLさんご夫婦は拙宅を辞された。短い付き合いではあったが、友人付き合いとは明らかに違う、何か特別な時間を過ごさせていただいたように思う。別れ際は、また一つ留学生活の終わりに近づいたという思いもあり、ちょっと感傷的になった。

お世話になりました。きっと、再会の日が来ることを。




歳をとった。

子供の頃、大人が「あれ、俺、いくつになったんだっけ?」などと言っているのを聞くと、そんなの忘れるわけないだろう、と思ったものだが、自分自身が三十路も半ばに差し掛かってくると、本当に忘れそうになる。
が、ありがたいことに家族がリマインドしてくれるので、スルっと過ぎ去らずにすむ。今日は手作りのケーキでお祝いしてくれた。
また、去年もそうだったが、Facebookのお蔭で、スローンの友人たちも、お祝いのメッセージをくれる。メッセージをくれる人の顔ぶれには意外感があって、結構面白い。いずれにせよ、ありがたいことである。

自分の親がこの歳であった頃というと、自分は確か保育園の年長さんくらいだったのではないかと思う。あの頃、親は何でも知っていて、結構コワい、と思っていたような気がする。近所の運動会で父親がギックリ腰になって、ああ、ウチの親って、そんな歳なのね、と衝撃を受けたような気もする。今、自分の娘たちは、自分のことをどう見ているのだろうか・・・。

昨日までの一年は、まるまる学生として、海外で過ごすという、中年にしてはなかなかユニークな年だった。経済的には苦しくなってしまったが(!)、面白かったと思う。今日からの一年も、元気で面白い時間が過ごせますように。




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PROFILE
HN:
Shintaro
性別:
男性
職業:
経営コンサルタント
趣味:
旅行、ジャズ鑑賞
自己紹介:
世の中を素直に見ることが苦手な関西人。
MITスローン校でのMBA、プライベート・エクイティでのインターン、アパレル会社SloanGearの経営、そして米国での生活から、何を感じ、何を学ぶのかー。

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