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在る偏屈者による半年遅れのMBA留学日記、そして帰国後に思うこと
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成長著しいマレーシアの首都、クアラルンプールに行く機会を得た。
さすがに昨年訪れたインドよりは発展しているが、夥しい建設工事の土煙や人々の表情・息遣いは、成長する国の勢いと明るさを感じさせる。

滞在中はほとんど会議室に缶詰であったが、一度だけホテル近くの巨大ショッピングモールに出かけてみた。クアラルンプール市内に3-4つあるという巨大モールの一つで、サッカー場7-8面ほどの広さが、地上4階、地下3階と折り重なる。最大のテナントは日本のイオン。もちろん売っているものや陳列の仕方はマレーシア風なのだが、広々としていて品物も良さそうであり、買い物も楽しい。その他にもユニクロや無印など、日本のリテールブランドがいくつも入っていて、客足を引き付けている。一方で家電製品などはサムソンなどの韓国勢が圧倒的に人気で、ニコンが頑張ってプロモーションをしていたが、客足ではどうも分が悪そうであった。
それにしてもショッピングモールを歩いて驚かされるのは、日本語の多さ。それも、どうみても日本人がやっていると思えない店や、日本のものではないブランドに、日本語が飾られていることである。



日本語表記以外でも、例えばZakkaとかMatsuriとか、日本語由来と思われる表記やロゴが少なくない。香港などでも同様のものは見かけるが、もっとソフトで憧れを孕んだ使われ方に思える。

かつてマレーシアはマハティール首相の時代、「Look East」と称して日本をモデルにした工業化・近代化を推進しようとしたことで知られる。それから四半世紀以上が経ち、経済的水準も大いに向上した今、消費者にとって日本はもう少しソフトな部分で「イケてる」存在であり、工業製品では韓国製を使っても、そうしたソフトな上質さを日本に求めているのであろうか。そうすると、「クールジャパン」というと、何かちょっと構えてしまって、またアニメとか和食とか、結局モノに転化して考えてしまいがちだけれども、じつは我々からみれば普通のものに「日本らしさ」を上手く演出する方が、素直に受け入れられるのではないか、と思えてくる。昔一緒に働いた仲間がインドネシアで米作りをはじめたが、そうしたアプローチの方が、無理にアニメを売り込むよりも、より広く長く支持されるのかもしれない。

岐路には、世界で最も成功している航空会社と称されるまでになったLCCのエアアジアを使ってみた。クアラルンプール国際空港に隣接(といっても車で数十分かかるが)する専用ターミナルは、ただの倉庫のような建物。駐機場の飛行機までは炎天下を歩いて進む。誰も文句を言わず、むしろ楽しそうで、こちらも何となくその気になってしまう。

伸びる国の何とも言えない能天気さに少し憧れながら、機内を舞うハエには辟易しつつ、帰国した。

日本は、秋の夜であった。
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ワシントンD.C.で、昨年敗れた米国大統領選共和党候補のスピーチを聴いた。
演台で話す彼は、60代後半とは思えない存在感と迫力、選挙戦の敗者とは思えない成功者のオーラを放っていた。選挙当時の政治的緊張から解放され、また聴衆も限られた人々であったためか、非常に直接的に、彼の世界観、政治的思想を語ってくれた。

曰く、米国は個人の自由と民主主義を土台にした資本主義の国である。こうした社会における成長の源泉は、競争、インセンティブ、それらによる生産性の向上にある。国や社会を成長させるには、人口を増やすか、一人当たりのアウトプット、すなわち生産性をあげるか、どちらかしかない。生産性をあげるには、より努力や工夫をして、同じ人数でより多くのアウトプットを生み出すか、同じアウトプットをより少ない人数で生み出すか、どちらかしかない。最近は、努力や工夫をせず、生産性もあげることなく、ただ待遇の改善を求める声も多いが、それでは社会の持続的な成長はありえない。生産性の向上は、インセンティブと競争が後押ししてくれる。我々の先祖が米国を建国したときの偉大な判断の一つは、この国を州に分け、それぞれが競争する環境を作り出したことだろう。そのお陰で、それぞれの州が企業や住民の誘致に知恵を絞っている。企業経営と同様、政治や行政においても、データに基づいた合理的な判断をすべきである。企業とは異なり、政府は必要なデータをすべて持っている。ただ残念ながら、それらを信頼に足る精度に整備したり、それらを意思決定に活用したりすることをしていないだけだ。こうしたやり方を少し変えるだけで、これまで想像もしなかったような成果をあげることができる-。

ユーモアを交えながら筋道立てて話すそのスピーチには、個人的には強く好感をもったし、企業経営に関わるものならば、多くが同じように賛同するだろうとも感じた。一方で、多数決を原則とする現在の民主政治では、こうした主張が受け入れられ、彼が国のリーダーとなることは難しいだろう、ということも、改めて強く感じた。

よく2:8の原理とか、パレートの法則とか言われるように、世の中の富の創出や成長の8割は、2割の人々によって実現されるものである。残りの8割の人々は、必ずしも努力が足りない人々ばかりではないだろうが、さまざまな理由で、結果的に多くの富を創出できない。企業や国が成長すれば自分たちも豊かになる、とか、明日の幸福のために今日の時間・労力を投資する、という考え方は、一見当たり前のようにみえて、人類の歴史の中では比較的新しい考え方であり、実際の成功体験がないと、心の底からは受け入れられないものである。前述の8割の人々は恐らく、努力してみても報われなかったり、あるいはそうした機会が身の回りに見当たらなかったりする人々だろう。そしてこうした人々の多くは、競争、インセンティブ、生産性向上の重要性を強調する議論を「勝ち組」の主張と受け取り、支持しないのではないだろうか。決して「間違っている」というわけではなくとも、受け入れられない。そうすると、政治的には負けである。いわゆる貧富の格差が開いてくると、この2割と8割の配分がより先鋭化し、1割と9割になったりして、ますます資本主義の原則を正面から振りかざす議論が政治的に支持されにくくなり、政治がポピュリズムに走りがちになる。一方で経済社会は、南欧諸国や日本をはじめとする多くの国々の財政赤字が象徴するように、より資本主義の原則との矛盾が拡大し、その反動がショックとなって降りかかるリスクが膨らんでいる。この矛盾をいかに解決できるのか。敗れ去った大統領候補の口からは、米国の選挙制度の問題点とその解決策についての意見は聞かれても、残念ながらこうした根本的な矛盾についての意見を聞くことはできなかった。


2013年の1月、と書くと、未だにふと、遠い未来のような印象を受ける。
紀元2600年や、北斗の拳の199x年、などと比べるわけではないが、2000代の下二桁に数字がある年号というのは、素朴にすごいことのように思える。

また、1月というのは、年が改まる新鮮さだけでなく、何かと思い出されるイベントが多い。
24年前の1月には、昭和天皇が崩御された。号外というものを初めて手にした記憶が、今も新鮮に残っている。
18年前の1月には、阪神淡路大震災があった。自分の部屋が途方もない力に突き崩されていく恐怖と、見知った町の信じられないような姿を映すテレビ映像から受ける虚脱感は、今も忘れられない。
10年前の1月には、その前の月で前職を退き、今の仕事を始めた。自分で勝手に転職したにも関わらず、年が明けて出社し始めると何かとんでもないことをしてしまったような気がして、ただ不安だったような気がする。

それから10年、世の中や自分の人生を騒がすようなイベントがあるわけではないが、毎年新しいチャレンジはある。今日も経済産業省の方からご依頼を受け、あるイベントで業界専門家との公開対談を行った。パワーポイント資料を使って一人でプレゼンすることはあっても、資料なし・相手あり、というのは初めてで、新鮮な経験をさせていただいた。3月には、MITでアジアの経済人を集めた経済会議のようなものが行われ、パネラーとして参加させていただく。私なんかで良いんだろうか、というのは毎回思うことであるが、少しずつ新たな刺激とともに成長の機会を得られるのはありがたいことである。

2013年も、前向きで面白い年になりますように。


沖縄にいる。
それと知っていたわけではないが、滞在するホテルの部屋からは、大浦湾越しに、辺野古岬が見える。辺野古といえば、米軍普天間基地の移設先として話題になっている場所である。東京にいると、物知り顔の「専門家」やニュースキャスター、NPO団体などが、辺野古の海や自然のかけがえのなさを訴えるのだけが情報源であるが、実際に青い海を挟んで向き合ってみると、確かに非常に穏やかで、豊かな自然環境であることに気づかされる。しかし同時に、その候補地は今は「なにもない」場所ではなく、米軍海兵隊のキャンプ・シュワブが既に辺野古岬の大部分(それも最も風光明媚で環境の良い場所)を占めていて、白砂のビーチにも民間人は立ち入れない、という事実も、すぐ目に飛び込んでくる。
偶然、辺野古に住む60歳くらいの女性に話を聞く機会があったが、確かに辺野古移設の話が最初に出たときは、村を二分する激論になり、女性の家庭内でも賛成派と反対派に分かれて家族の縁を切るほどの議論になったという。基本的な対立軸は、昔から親しんだ自然の維持を重視する立場と、基地による経済的メリットを重視する立場の対立である。ただ、それも随分前の話で、地元としては実際にいったん基地受け入れで落ち着いていたらしい。ところが鳩山首相以来の「すったもんだ」で、にわかに全国の注目を受けるようになり、それまで特段騒ぎ立てもしなかった前述の「専門家」やマスコミ、NPOなどがわあわあ言うようになったもんだから、地元からすると「何事か」という多少醒めた感覚なんだそうだ。よく聞く「ジュゴンの住む美しい辺野古の海」という話も、今回の「すったもんだ」のあと、地元の人たちは初めて聞いたらしい。私が話を聞いた女性も、テレビでジュゴンの話を聞いて、親戚近所に聞いて回ったそうだが、誰もジュゴンがいるということを知らない。念のためと、大浦湾を越えた北の集落で聞いてみると、そこでは見たことがあるという人や、食べたことがある(!)という人までいたらしい。つまり、ジュゴンはいるにはいるが、今回の基地の話とは直接関係ない場所にいるのだそうだ。大浦湾沿いを走る国道にも「ジュゴン」をうたった基地反対派の看板が立つが、それも県外の人が置いていったものだという。
さらに彼女がいうには、辺野古は昔からキャンプ・シュワブの米国人と積極的に交流をもち、村の集まりや行事にも米国人を招いたりしてきたため、比較的地元と米軍の関係が良好で、トラブルもないらしい。むしろ国際結婚も多く、彼女の姉妹や姪でも米国人と結婚し、またその配偶者が軍隊を退役後も辺野古に住んで、地元と米軍のパイプ役になっていたりもするという。一方、同じ沖縄、あるいは同じ名護市でも、基地の多い太平洋側は概ねそのように融和的である反面、基地のない東シナ海側では米軍に「免疫」がなく、非常な警戒感と恐怖心を懐いているらしい。
百聞は一見にしかず、また一見もその背後にある現実にはしかず、ということか。。。

仕事で、インドのニューデリーを数日間訪れる機会があった。
恥ずかしながら、初めてのインドである。
短い滞在ではあったが、幾つかの角度から、同国の噎せかえるようなエネルギーと、大きな矛盾を体感することができた。

インド最大の二輪車メーカー"Hero Motors"の幹部の方がスピーチで、インドを"Extreme diversity"と称されていたが、私が今回感じた同国の印象を一言で表すと、この表現に至るように思う。それは単に同国が、12億人を超える人口を要し、22の「公用語」と数千の小言語が話され、州や地方によって文化も大きく異なる、という意味だけではない。貧富の差、学問の差、官民の差、政治観の差、生きる目的や時間軸の差など、実に様々な軸で、信じられないほど広いスペクトラムの両端に生きる人々が、ニューデリーという街の中でさえ混在している、という意味である。

ニューデリーの一角のスラム街を訪れ、そこに暮らすある家族の自宅にお邪魔する機会があった。どこかの農村から職を求めて流れ着いたというその家族は、両親と子供が5人で、4畳半が二間くらいの家に住んでいる。父親は街の屋台でフルーツを売り、4人の娘のうち3人が内職の裁縫をし、あわせて一家で月に5,000円ほどを得ている。うち1,500円ほどは家賃に消え、残されたお金で細々と暮らす。内職をする娘3人は、学校に行ったことがない。農村から不法に流入してきたために居住証明がなく学校に行かせられない、と母親は話していたが、一人息子と末の娘は学校に言っているということだったので、辻褄が合わない。恐らく、良く言えば二人の就学を他の家族で支えている、悪く言えば3人の子供を労働力として搾取している、ということだろう。内職をする3人の娘に将来の夢を聞いてみた。曖昧な笑みが返ってくるだけで、要領を得ない。やっと一人の子が「お医者さん」と言ってみたが、即座に母親から「学校もいってないのに、なれるわけないでしょ」と一蹴され、あわてて「学校にいくこと」と言い換えていた。

一方で、インドの一流大学を出た(あるいは出ようとしている)若者15人ほどと、英国生まれのインド人起業家との討論に、参加する機会もあった。
こちらの学生たちは、当然英語を自在に操る(前述のスラムの家族とは通訳を介してヒンディー語で会話)し、議論を重ねる力が本当に長けている。独り言のように自分の意見だけ延々というのではなく、きちんと相手の意見や質問を踏まえて、主張を展開する。意見の論理的構成力や論旨の明快さはさすがに個人によってバラツキがあるが、皆一様にレスポンスが早く議論が途切れないので、次第に言いたいこともみえてくる。彼らの視線は、5年から10年の先にある。彼らは皆、自らの才覚に自信と責任が強く、誰かに何かを言われてやるのではなく自分の志す道を進み、チャンスをつかもうと必死である。恐らく相当の苦労をして、それだけの学問を修めるに至ったのだろうし、それを可能にしてくれた家族への強烈な責任感もあるのだろう。日本的にいえば、協調性がないとか、謙虚さがないとか、そういう評価を受けるかもしれないが、我々に対する敬意も忘れておらず、必ずしも嫌な感じはしない。むしろああいう若者が、湧いて出るように無尽蔵に輩出され、一部は米国や英国でも教育を受け、インド国内に限らず、中国や中東、あるいはアフリカなど、新興国市場で貪欲に活躍していく姿には、計り知れないポテンシャルと脅威しか感じない。

そして、同国を導くはずの中央高級官僚は、こうした停滞と飛躍、苦難と希望、搾取と投資が渦巻くインドの民衆と、まったく乖離した精神世界に生きている。簡単な昼食をご一緒させていただいた50歳前後とみられる財務省秘書官は、貧困にあえぐスラム街の人々にも、輝かしい可能性をもつ若い人材にも、さして興味がないようである。多弁でユーモアに富んだ彼の口からでる言葉は、民主主義の素晴らしさ、皆が自分の意見をもつインド人の素晴らしさ、国連やWHOなどの国際機関の限界、などの大所高所の話ばかり。具体的な各論になると、とたんに議論がおぼつかない。例えば格差と貧困の解消について問うと、「全国民に、コメと麦と食用油を支給するのはどうか、と考えている」と、まるで突拍子もなく、また国民の真のニーズを理解しているとも思えない発言が出る始末。インドの国家官僚は、給与も高くないが、20代で日本の国家公務員一種試験にあたるような試験にパスすると、その後の業績や活躍に関わらず、一生それなりのポジションを巡りながらの雇用が確約される。彼自身、それを認めつつ、「だから我々は自由に議論できるのだ」と半ば開き直っている。今後の天文学的な金額が投じられる同国のインフラ建設などが、こうした人々に牽引されるのかと思うと、恐ろしくなる。

日本にいると、何となく「遠い」感覚でいたインドであるが、こうした極端な多様性を包含しながら、確実に成長している。どこかで矛盾が爆発するのではないか、とか、そういつまでも高成長が続くわけではない、とか、懐疑的な目を向けることは簡単だが、我々の世代もさることながら、我々の次の世代の日本人は、間違いなく彼らのような連中と闘っていく必要がある。そして彼らの矛盾が爆発することがあれば、それは既に一つの国民国家の中だけの限定的事象ではなく、地球人口の20%以上が関与する社会現象として、影響は世界中に拡散されるだろう。いや、「影響の拡散」という点では、既に恐るべきペースで、随分以前からそれは始まっているのかもしれない。日本の学校教育や企業教育は、こうした現実を次の世代に正しく教えているのだろうか。インド社会の張り詰めるテンションへの疑問とともに、そんな疑念も強く感じた滞在であった。


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PROFILE
HN:
Shintaro
性別:
男性
職業:
経営コンサルタント
趣味:
旅行、ジャズ鑑賞
自己紹介:
世の中を素直に見ることが苦手な関西人。
MITスローン校でのMBA、プライベート・エクイティでのインターン、アパレル会社SloanGearの経営、そして米国での生活から、何を感じ、何を学ぶのかー。

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