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「 MBA General 」
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本日、Westgateを退寮した。

同じ寮内に住むロシア人同級生にも手伝ってもらったが、捨てるものと持ち帰るものの選別など、細かいところは自分でやらなければならない。持ち帰るといっても一人で持てる量には限界がある。いざ荷造りをしてみると、予定していたカバンに入る量は思った以上に少ない。カバンに入らないとなると、近所の人にあげるか、捨てるしかない。消耗品類は、この日娘の面倒を見てもらっていたポーランド人のご近所さんにあげた。子供の机や玩具も、同じ棟のご近所さんに引き取ってもらった。それでも、そうしたものはごく一部で、持ち帰れない家財道具の大半は、廃棄することになった。3階の部屋から、別棟の1階にあるゴミ捨て場まで、階段を何往復したかわからない。タオルや子供用の椅子、食器など、ほとんどはまだまだ使えるものばかりで、リサイクル用のゴミ捨て場に置いておくと一部は住人が持ち帰ってくれるとはいえ、ずいぶんともったいないことをしているようで、心苦しかった。が、何はともあれ今日中に部屋を空っぽにしなければならない、という意識が、そんな感傷を封じ込めていた。朝から続けた作業も、終わったのは夕方6時半を過ぎていた。中庭に集まったご近所さんにお別れの挨拶をし、何もなくなった部屋で娘と記念撮影をする。築30年以上で、エレベーターもなく、洗濯をするにも別棟までいかねばならず、いろいろと不自由も多かったが、素晴らしいコミュニティーに支えられ、貴重な2年間を過ごすことができたこの寮には、思い出がいっぱい詰まっている。不思議なもので、部屋が空っぽになると、余計にそのことを痛感させられる。住んでよかったと、心から思う。

その後は、ベビーカーにスーツケース二つとダッフルバッグを積み上げて、ゴルフバッグを背負い、娘の手を引いて、隣のブロックにあるホテルまで移動。荷物を部屋に置いて、食事に出かける。夕食は、Back Bayにあるシーフードレストランを予約してあった。同級生のWK君とその奥さんにも加わってもらい、ボストン最後のディナー。このレストランは、2003年に会社の研修で初めてボストンに来た際に利用し、以来機会があるたびに利用している。初めてここに来てからもう6年…、当時はボストンの地理もまったく理解できておらず、寒さと空腹に耐え切れずに、店構えと匂いにひかれてこの店に飛び込んだように思う。それから6年後、自分の娘を連れて、同級生とその奥さんと一緒に、2年間の米国生活最後のディナーをしているのだから、中島みゆきではないが、「まわるまわるよ時代は回る」である。

ホテルに戻ってシャワーを浴びると、娘はすぐに眠ってしまったが、私はなかなか寝付けなかった。体は節々が痛み、芯から疲れきっているはずなのだが、眠れない。意図してそういう部屋を選んだのだが、ホテルの窓からは、2年間住んだWestgate、そしてその奥にMITのキャンパスがみえる。ふと先ほどの「時代は回る」を思い出しYou Tubeで中島みゆきの「時代」をかけてみた。初めて、涙が出た。

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フランス人同級生のD君が、Beacon Hillの自宅に日本人同級生を招待して、ホームパーティーを開催してくれた。

どういう経緯か詳しくは知らないが、合気道に通じ、日本の絵画や料理などにも詳しいD君。しかしいくら日本が好きだからと言っても、日本人同級生とその家族全員を招待してパーティーまで開いてくれるというのには、感謝を通り越して、驚きを禁じえない。そして瀟洒な歴史地区に構えた彼のアパートは、学生の仮住まいとは思えない広さに、高いセンスを感じさせるインテリアが配置されていて、これまた驚き。聞くと家具はほとんどイケア製だというから、お洒落はお金ではありません、というのの良い例だろう(もっとも、スローンに来るまでにヘッジファンドなどで相当儲けたD君だから、これだけのアパートに住めるのだろうが)。

ともあれ、彼のお陰で、日本人同級生にボストンでお別れをする最後の機会を得ることができた。
皆さん、お世話になりました。


いよいよ、卒業式の日となった。

ハーバード大学などの大型校が学部ごとに卒業式を行うのに対して、比較的規模の小さいMITでは、全校まとめての卒業式が執り行われる。専攻の違い、学士・修士・博士などの学位の違いに関わらず、全卒業生がMITの象徴ともいうべきドームの前の広場に集まって、卒業証書を授与されるのである。ただ、いくらMITの学校規模が比較的小さいといっても、それだけ集まれば卒業生の数は優に2,000名を超える。これが一人ずつ名前を呼ばれて卒業証書を受け取るわけで、必然的に式は長時間に及ぶ。

朝8時頃、まず体育館に集合。全員学位応じて指定のガウンと帽子(あわせてRegaliaというらしい)を着用。見知った顔の同級生も、ずいぶんと違って見える。ガウンの下は、当然ワイシャツにネクタイ着用…と思ったら、そうでもない。ノーネクタイは珍しくなく、Tシャツ、短パンにサンダル履き、という輩までいる。このあたりも、MITらしい。全員集合の後、工学部を先頭に、学部ごとに一列で卒業式会場に向かう。途中、街と大学の中心を抜けるマサチューセッツ通りを一部通行止めにして、通りの真ん中を歩くあたりから、ちょっと誇らしい気分になる。そしてそれらしい音楽と拍手の中を、ドーム前の芝生の広場に設けられた卒業式会場に入場していくところは、いくら斜に構えてみても、やはり晴れやかなものである。

しかし、これに続くいくつかのスピーチには、あまり期待していなかったとはいえ、がっかりさせられた。学校トップのスピーチは、ほぼ毎年話しているであろうMITの実績に、足元の不況の話題をくっつけただけの、新味のない内容であったし、ゲストスピーカーとして登場したマサチューセッツ州知事のスピーチは、そっくりそのまま他の学校にもっていっても使えるような、MITとの繋がりに乏しい内容であった(彼自身、「これが自分にとって4回目の卒業式スピーチだ」と語っていた)。あまりにも退屈だったためか、スピーチの最中には何処からともなく卒業生の席上に舞い込んできたビーチボールを、皆でトスしてまわす一幕もあった。こうした内容を知った上での予防線なのか、一連のスピーチに先立つ開会の辞では、司会を務める学校幹部から「我々は君たちがこれから話すスピーチに必ずしも興味がないことも、その内容を今後ほとんど覚えていないであろうことも知っているが、それでもスピーチはやる」という実に的を得た(?)ブラック・ジョークがあったが、それにしてもせっかく全校一斉にやるのだから、もう少し心に響くメッセージを送ってほしいものだ。

スピーチの後は、いよいよ卒業証書の授与。但し、歴史の古い学部から順番に渡されるため、50年ほどの歴史しかないスローンは、かなり後回し。証書の授与が始まってから自分の名前が呼ばれるまで、1時間半ほどかかっただろうか。それでも、授与の瞬間はやはり嬉しいものである。10年ほど前に卒業した大学の卒業式がどんなだったか、既にはっきりとは覚えていないが、この日の様子は、きっと長い間覚えているように思う。
全員分の卒業証書授与が終わると式は終了し、流れ解散のように学生とその関係者は各地に散っていく。概ね学部ごとに分かれてランチ会が設定されているので、多くの学生はそこに移動していく。スローンは改装された付属図書館前のテラスにケータリングが用意されたが、不況の影響からか、昨年に比べて料理や飲み物の内容は格段に落ちていた。そして、それが理由というわけでもないのだろうが、卒業式だけに出て、ランチ会に来ない同級生が少なくなかったことも、残念だった。日本人的には、ここで別れの挨拶をしたり、写真を撮ったりしたいような気もするが、ガイジンは割りとこの辺の感覚があっさりしているのかもしれない。というわけで、ランチ会に参加した日本人同級生で集まって、記念写真を撮影。彼らを含め、数は決して多くないが、今後も付き合いを続けていきたい仲間ができたことは、本当に良かったと思う。

かくして卒業式も終了。2年間の留学生活も、後は寮の片付けと帰国を残すのみである。


Moving Saleで売れたイスを届けに、朝から小雨の中を、隣町まで車を走らせた。買ってくれたのは、この秋から入学する予定の女性。朝9時の約束どおりに彼女のアパートを訪ね、ブザーを押すと、出てきたのはなんと同級生の男性。少し前から交際を始めて、今は一緒に住んでいるらしい。直前まで寝ていたようで、彼女が身支度と部屋の支度をするまでの間、玄関先で立ち話をしていた。彼はクラスでも(いい意味で)目立つ部類の米国人学生で、課外活動も積極的に行っていて学内の顔も広いのだが、卒業後の就職先はまだ決まっていないという。

2月の時点で、卒業後の就職先が決まっていないスローン生は、全体の5割近くに上っていた。その後はっきりとした統計は発表されていないが、感覚的には全体の少なくとも1/4程度の学生が、まだ仕事を見つけられていないようである。そしてその中には、この日会った彼や、SloanGearで活躍してくれたメンバーのように、比較的優秀な連中も少なからず含まれている。先日ハーバード・ビジネススクール(HBS)の日本人学生から聞いたところでは、世界に名だたる同校でさえ、2割近くの学生が、就職先未定で卒業する見通しだという。戦慄すべき就職難である。もちろん、就職先が決まっている学生の中でも、全員がその進路に100%満足しているわけではない。ビジネススクールに来る学生の大きな動機の一つは、入学前に比べた卒業後の平均給与の高さ(学校にもよるが、平均して1.5倍以上にはなる)であり、これが通常在学中の借金返済の元手になるのだが、今年に限っては入学前の会社に戻るという学生も多く、転職組でも1.5倍以上の給与アップを勝ち取った連中というのは、それほど多くないように思われる。ビジネススクールの存在価値自体が疑問視されている、という事態ではないと思うが(思いたいが)、それだけ求人市場が冷え切っているということである。

そんな中、我が身のもとには、今でもときどきヘッドハンターから求人の紹介が来たりする。必ずしも興味を感じるオプションでなかったりもするので、今のところ仕事を変わる気はないが、上記のような現実を前にすると、実に有難い話だと思う。ただこうした求人でさえ、今後も期待できる保障は当然ながらまったくないわけで、目下の不況がある程度長引くであろうことを想定するならば、自身の経済的・社会的不安定さは決して忘れてはならないだろう。そうした中で自分にできることは、ただ着実にビジネスマンとしての実績を積み上げていくことでしかない。
仕事の決まっていない同級生から受け取ったイスの代金を手に、自宅に戻る車の中で、そんなことを考えていた。



本日をもって、2年間のMBA課程のすべての授業が終了した。
最終日の今日は3科目を受講したが、そのうち二つのクラスでは、プレゼンテーションをする機会に恵まれた。

最初のプレゼンテーションは、このブログでも紹介したことのある、CEO Perspectiveという授業でのこと。実際の会社で過去に起こった経営危機を題材に、自分がCEOだった場合にどういう対策を取締役会に提案するかを、毎回半数の学生がプレゼンテーションにまとめて提出、授業の初めにプレゼンテーションを提出した学生の中から1名が指名され、その危機を実際に乗り切ったCEOの同席するクラスにおいて発表する、というもの。いつかプレゼンテーションはやってみたいと、以前教授に話してはいたが、最後で回ってくるとは思わなかった。10分強の短いプレゼンテーションであり、どちらかというとオーソドックスな内容だったように思うが、授業の後で同級生から「この授業で発表した誰よりもいいプレゼンだったよ」とか、「今のがMBAで最後の授業だったけど、最後で一番いい学生プレゼンが聞けたよ」とかの言葉をもらって、まあ多分にお世辞や外国人学生への甘めの採点もあるだろうとはいえ、素直に嬉しかった。

もう一つのプレゼンテーションは、交渉術の授業で。授業で学んだ交渉術や交渉過程の分析フレームワークを使って、7人前後のチームで実際の時事問題を分析し、より良い交渉戦術を提案する、というもので、我々のチームは北朝鮮のミサイル発射問題を取り扱った。こちらは純粋に学生相手のプレゼンテーションであり、かつ3時間の授業中、延々と各チームのプレゼンが続けられるため、学生の興味をひくために、エンターテイメントの要素が強く求められる。要するに、ウケなければいけない。英語でウケをとる、というのもMBAで学んだ技術?である。即興も含めてボケてみたが、結構ウケた。大阪人なので、ウケると嬉しい。最初の授業のプレゼンとは全く異質の満足感があった。

そんなわけで、最後の授業が終了。
だいたいそういうものだが、終わってみると、実にあっけないような気もする。もうちょっと込み上げて来るものでもあるかと思ったが、皆周りの学生がカラっとしているので、そういうのもナシ。自分が2年間でどれだけ変わったのか、成長したのかも、自分では良くわからない。まあでも、そんなものか。



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PROFILE
HN:
Shintaro
性別:
男性
職業:
経営コンサルタント
趣味:
旅行、ジャズ鑑賞
自己紹介:
世の中を素直に見ることが苦手な関西人。
MITスローン校でのMBA、プライベート・エクイティでのインターン、アパレル会社SloanGearの経営、そして米国での生活から、何を感じ、何を学ぶのかー。

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