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「 Travel 」
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秋学期は、毎月1回は、月曜日が休日になる。
10月はColombus Day、11月はVeterans Dayで、いずれも第二月曜日。祝日のない9月も、Student Holidayとして22日が休みになっている。今年は金曜日に需要を入れていないので、月曜日が休みになると4連休である。
行楽の秋、じっとしている手はない。

というわけで、秋学期の家族旅行第一弾として、カナダ・ケベック州を車で回ってきた。
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19日 Cambridge ⇒ Quebec City (約7時間+休憩)
20日 Quebec City ⇒ Tremblant (約4時間+休憩)
21日 Tremblant ⇒ Montreal (約2時間+休憩)
22日 Montreal ⇒ Cambridge (約5時間半+休憩)
という、総走行距離約1,000マイル(1,600km)の行程である。

初日は、高速道路をひたすら北上し、陸路国境を越えてセント・ローレンス川の南岸をさらに北上、ケベック・シティーに向かう。
沿線の景色は、期待したほどではなかった。米国内はまだ道も良く、途中州立公園を抜ける場所などがあり、目を楽しませてくれたが、カナダ領に入ってからは舗装が悪く、沿線の風景も貧相。地図でみるとセント・ローレンス川に沿って走っているようにみえる道も、実際に走ってみると川は全く見えない。ドイツのライン川沿いの道のような、川面と森に挟まれた道を想像していたので、正直がっかりした。
しかしケベック・シティーは、異国情緒たっぷりで、そんな落胆を十分に癒してくれた。北米には極めて珍しい(というか米国・カナダでは唯一の)城壁都市で、1608年設立というから、1630年に清教徒がボストンやケンブリッジの町を開いたのよりも古い。街並みもヨーロッパ風で、英国風のボストンとは明確に異なり、散歩が楽しい。
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宿泊したのはLe Château Frontenacという古城ホテル。セント・ローレンス川、旧市街、河港を見下ろすロケーションにある超人気ホテルで、日本からのツアー旅行でも目玉として組み込まれていたりするらしい。5-6階建、半径50メートルほどの回廊型の建物と、その中央に15階ほどの高さの城館が配置されていて、とにかく巨大。ホテル内を案内するツアーは50分を要するという。お値段も子連れで泊まれる部屋となると一室500ドルを軽く超えたが、従業員のサービスも良く、満足。
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二日目はセント・ローレンス川の北岸を南西に進み、モントリオールの北郊をかすめつつ、北に折れてスキーと紅葉の名所ローレンシャン高原に向かう。高原の最も奥(つまり北)にあるTremblantは、日本で西武グループが開発した苗場のような、地場の大手デベロッパーが開発したリゾート地。しかし、当地の休暇の過ごし方の違いも影響しているのだろうが、日本のスキーリゾートに比べると長期に滞在しても楽しめるように、工夫が凝らされている。
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西武グループなどと異なり、デベロッパー自体は賃借モデルに特化していて、ホテルやレストランは皆テナントとして入っている。但しリゾート全体としての景観を損なわないように、ホテルなどの建物を含めた町全体のハコモノはデベが開発しているようで、自然に、かつ機能的にできている。地下に張り巡らされ各ホテルのロビーに直結している共同駐車場などは、デベのリーダーシップがなければ建設・管理できないだろう。また自然を活かしたアトラクションも豊富で、オフシーズンでもそれなりに遊べる。ホテルも、ウェスティン、ヒルトン、マリオットなどの有名ホテルチェーンが一通り入っていて、それらが競争することで良心的な価格とサービスが提供されている。我々が滞在したヒルトンの部屋(写真)はロフト式で、1階にはキッチン、ダイニングテーブル、ソファーなどが備え付けられ、ロフトにベッドが配置されていて、非常に広々としていた。これで朝食付きで一部屋175ドル。オフシーズンとはいえ、実にお得である。
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三日目は山を降り、モントリオール市内へ。
モントリオールはカナダで二つしかない100万都市の一つで、万国博覧会、オリンピックも開催されたことのある「世界的大都市」である。しかし旧市街は古いフランス式の街並みを残し、どこか枯れたような印象を受ける。
宿泊したのは、その旧市街にあるSaint Sulpice Hotel Montrealというホテル。独立系のホテルで、インターネットで知って訪れたのだが、これが素晴らしかった。恐らくこれまで200近いホテルに泊まったと思うが、設備・サービス・値段のバランスにおいてその中でも(日本の旅館を除いて)トップ3に入るだろう。部屋はいずれも非常にゆったりと作られており、我々の部屋もベッドルームとリビングが分かれていた。内装やアメニティーにも細かい気遣いがみられ、過ごしやすい。従業員のサービスもプロフェッショナルながら温かみがあり、非常に気持ちが良い。モダンなレストランでのビュッフェ式朝食がついて一室200ドルちょっと。一人当たりの値段ではないかと疑ったほどである。
そしてこれはケベック・シティでもそうだったが、夕食は素晴らしかった。家族連れでも入れる、一人50~70ドルのレストランを利用したが、素材、味付けとも最高。米国の生活でこうしたものへの期待値が下がっているからかもしれないが、とにかく満足度が高かった。
最近はそうでもないらしいが、米国人はカナダ人を多少低く見るというか、小馬鹿にしたようなところがある。かつてコンサルティング・ファームの新人トレーニングで、同じチームになったテキサスのやんちゃ坊主がカナダ人チームメイトをからかって、危うく暴力沙汰になりかけたこともある。しかし、レストランやホテルなどのサービス業の質は、カナダ(ケベック、といったほうが正確か)の方が比較にならないほど高い。フランス文化の影響、という説明がそれなりにもっともらしく聞こえるが、それだけだろうか。これだけ地理的に近いのだから、米国も、少なくとも都市部だけでも良いから、こうしたサービス業の質に倣ってほしいと思うが、それは英国人にフランス人のようになれというような無理難題なのだろうか。

四日目、モントリオールを後にして南下、国境を越えてバーモント州に入ったが、昼食は選択の余地なくマクドナルド・・・。そのときの気持ちは、恐らくお察しいただけるだろう。


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10週間のサマーインターンを終え、8月16日にボストンに戻ってから、同じ飛行機でボストンを訪れた両親を案内しつつ、フェンウェイパークで野球観戦、ボストンの南東に浮かぶMartha's Vineyard島への小旅行、ボストン交響楽団の夏季演奏地タングルウッドでの音楽鑑賞と、短いボストンの夏を駆け足で楽しんでいる。
そしてその勢いで、21日から3泊4日で、ニューヨークを訪れた。今回の留学のために米国に住むようになってからは、初めてのニューヨーク。仕事で何度か訪れたことはあったが、時間的余裕、地理的理解が乏しかったことと、いずれも冬場であまり外を歩く環境ではなかったことなどから、所謂観光も今回が初めてである。3世代6名でぞろぞろと動き回ることになったが、想像以上に面白かった。いくつか、ハイライトを記しておきたい。

摩天楼
狭いマンハッタン島にビル群がひしめく姿は、やはり壮観。
今回はボストンから車を自分で運転して街に入ったので、ハイウェイが大きく旋回してブロンクスに入ったあたりでまず前方にビル群の北端が見えてきた。おお、着いた、という直線的な感動がある。
到着後さっそく登ったロックフェラー・センターのGEビル(高さ259m)からは、夕暮れ時のビル群が目線の高さから下にみえて、これも絶景。南には夕陽を浴びたエンパイヤ・ステート・ビル、その向こうにウォール街、後ろにはヒルトンやプラザなどの有名ホテル群の向こうにセントラル・パーク…。まさに米国資本主義の象徴、あるいは現代版城郭都市(壁は石やレンガではなくカネで出来ている)、という風景。
自由の女神のあるリバティー島からのマンハッタン島も、エネルギーが常に臨界点まで高まった途轍もない物体に見える。銅板を張り合わせて作られた自由の女神そのものよりも、彼女はいつもこういう景色を見つめているのか、ということにちょっと感動した。

Ground Zero
事件が起きた2001年9月11日のそのとき、私は当時勤めていた会社の独身寮に、仕事を終えて帰ってきたところだった。テレビをつけると、確かニュースステーションだったと思うが、いつもならスポーツニュースをやっているくらいの時間帯なのに、黒煙を上げるワールドトレードセンタービルの映像が流れっぱなしになっていた。放送予定が変わって映画でもやっているのかと思ったが、音声は久米宏の声だった。何が起きたのか良くわからず、ネクタイを外しながら画面を見ていると、二機目の飛行機が無事だった方のビルに突入した。ライブ映像だったかどうかは定かではないが、なにか非常に恐ろしいことを、リアルタイムで見ているようで、阪神淡路大震災の記憶やいろいろなものが頭を巡り、金縛りにあったように暫く動けなかったことを覚えている。
その悲劇があった場所は、あれから7年も経つのにまだ建物がなかった。数mの距離からその大きな空白地を肉眼で見ると、広島の原爆ドームを見たときにも感じたような、静かで深い衝撃があった。

Central Park
映画でも良く出てくるし、一時はまっていたドラマ「フレンズ」にも登場する広大な公園であるが、実際に歩いてみると、想像とはまったく異なっていた。
まず、でかい。大きいとは思っていたが、それよりさらに随分と大きい。
そして作りが複雑。ロンドンのハイド・パークのような、あるいは東京の代々木公園のような、ほぼフラットな土地に広々とした芝生が広がる公園を想像していたが、実際は起伏が大きく、巨石が転がっていたり、木々が鬱蒼とした場所があったりと、忙しく変化している。想像を肯定してくれるような芝生の広場もあったが、それ自体は思ったほど広くはなかったりした。
それでも憩う人の密度が適度で、居心地がいいのは、やはり全体がそれだけ大きいのと、適度な規制(バーベキューをしない、など)が行き届いているためだろうか。

Grand Central駅
これも映画に良く出てくる、マンハッタンを代表する歴史的建造物である。歴史的、といっても150年ほどの歴史しかないが、駅としてはかなり古い方であるし、歴史のない米国はこういうものを大切にしている。外観もさることながら、中央ホールの威容は圧巻。広大な大理石の床、その125m上のドーム型の天井には、プラネタリウムのように星空が描かれている。
地下にあるシーフードレストランで夕食をとった。最近丸の内にも出店した人気レストランであるが、やはり「本場」は雰囲気も味も違う。

Blue Note
高校生くらいからジャズを聴くようになり、かつては東京でもよくライブを聴きに行っていたが、コンサルタントになってからはなかなか時間が取れなくなり、「本場」米国に渡ってからも子連れではなかなか聴きにも行けず、暫くライブから遠ざかっていた。
しかしニューヨークまで来て「何も」聴かずに帰るのは、あまりにも惜しい。数年前に仕事で来た際に訪れたライブは、店の雰囲気も音楽も、素晴らしかった。しかも調べてみると、ブルーノートにラリー・カールトンが来ているという。これは是非とも聴きに行きたい!というわけで、両親に子供を預かってもらい、妻とブルーノートへ。最高でした。

Visiting a Friend
最後の夜は、友人の家に招かれて、夕食をご馳走になった。
「通常の」年であれば、夏のニューヨークはウォール街でインターンをするビジネススクールの学生が多く集まっているのだが、今年は折からの不景気で投資銀行は採用意欲が悲惨なほど乏しく、スローンからニューヨークに来ている学生も驚くほど少ない。それでも同じ寮に住むチリ人のA君は、母国語のスペイン語に加えて英語、フランス語も出来るという語学力が評価されて、フランス系の銀行にインターンの場を得ていた。彼はコロンビア大学の寮を夏の間だけ借りて住んでおり、そこに招かれたのだった。
久しぶりに会う友人との会話、心づくしの手料理も嬉しかったが、「ニューヨークで友人の家に行く」というタテツケが、田舎者にはミーハー心を擽られるようで、何ともドラマチックだった。


明日からはまたボストンでの生活が始まる…。

会津路を、通り抜けてみた。

ふと、北に行きたくなったのが、理由といえば理由だった。日本の夏の一つの週末も、すぐ米国に戻ると思うと貴重なものに感じられ、その気持ちが身体を急き立てたのかもしれない。かつての記憶で、鉄道で郡山から会津若松を経て奥会津を縫い、越後湯沢の方に下りてくる、というコースなら、一日で会津路を抜けて帰ってくることが頭にあった。鉄道の時刻を調べてみると、まだその記憶が有効であることはすぐにわかった。

朝7時過ぎに自宅を出て、東京駅から郡山まで新幹線に乗り、ローカル線で会津若松に向かう。観光客を集めようとときどきSLの走る閑線だが、夏休みの親子連れなどでそれなりに賑わっていた。
走り始めるとすぐに、単線の線路は緑に包まれるようになった。郡山盆地から猪苗代湖畔を経て会津盆地に至る磐越の道はそれ全体が連続的な盆地のようで、常に大小の田園風景が目を離れることがない。途中、磐梯熱海や中山宿のあたりで両側に山が迫ってくるのがもっとも狭隘なくらいで、それすらも大らかなものである。

列車は1時間と少しで会津若松駅に入った。
古くは当地の豪族蘆名氏の拠点として開かれ、戦国の頃は奥州最大の都市であったという。伊達政宗に征服されて同氏の拠点となったが、豊臣秀吉の世となってから近江の蒲生氏郷が移封されてきた。伊達氏の勢力をそぎ、あわせて秀吉も恐れた才覚の持ち主である蒲生氏郷を畿内から遠ざけるという意図であったと、司馬遼太郎か誰かの説で読んだ記憶がある。ともかく、氏郷の町造りの才覚と彼が率いてきた近江商人が町を更に発展させたようで、町には今でも氏郷を偲ぶ史跡が大切に守られている。
今では人口13万人弱の東北の一地方都市に過ぎず、区画の整えられた市街地には、中心部でも人の往来があまりみられない。タクシーの運転手氏にきいても、景気は昨年秋頃から一向に好転しないという。「不動産や建設業がダメです」という彼の言葉のとおり、町には土木・建築工事の類がまったくみられない。氏郷が育て上げた商業と手工業の町も、高度経済成長期に日本の地方都市の経済パターンに染め上げられたようで、工事がないと経済がもたないのだろう。
運転手氏に案内してもらった馬肉専門店で昼食をとった。馬肉で有名な若松でも珍しい、馬肉の専門店だという。確かに、桜寿司、刺身、桜カツ、桜唐揚げ、桜鍋と、馬肉料理ばかりがメニューに並んでいた。
カウンターで刺身を喰いながら、食用の馬がどこにいるのかと何気なく聞いてみたら、正直な親父さんは、「北海道かカナダだねえ」と白状された。

食後、駅に戻り、再び鉄道に乗る。
只見線というローカル線で、奥会津を抜けて越後は魚沼の方に向かう。只見川に沿って奥会津を縦断する無電化路線だが、一日に3往復しかないという、「筋金入り」のマイナー路線である。二両編成のディーゼル列車は、乗客のおそらく半分以上が、いわゆる「鉄道マニア」と思しき方々。列車がホームに滑り込んできたときから、忙しそうに写真を撮っている。
列車は、そんなことは百も承知、というように、定刻にゆっくりと走り始めた。稲の葉と畦の青々とした風景が美しい夏の会津盆地を、そっと走り抜ける。会津の田園風景は、思いのほか広々として、豊かであった。下品な看板や軽薄な商業施設も少なく、映画のような日本の田園が広がる。
1時間足らずで盆地の南端に至った列車は、やがて樹木の陰に吸い込まれるように、只見川沿いに奥会津へと入っていく。車内に、冷房機はついていない。天井にぶら下がった扇風機と開け放たれた窓から入ってくる風で涼をとるようになっている。ときおり入ってくる草の匂いが、なんとなく嬉しい。
奥会津は、こういっては失礼だが、なにか世俗から忘れ去られたような一帯である。谷に沿った斜面を懸命に削って得た狭い土地に、ひっそりとした集落と田畑が置かれている。会津漆器のもととなる檜をとったり、建設資材を掘り出したりする産業もたまにみられるが、それらも只見川がダム湖にかわるころにはすっかり姿を消す。鉄路はダム湖の湖畔をかすめ、トンネルで山を貫き、鉄橋で渓谷を渡って、奥へ奥へと入ってゆく。窓からの空気が、ますます心地良くなる。源平から戦国までのどこかの戦いで敗れた武士が落ちてきたような集落がときどき姿をみせ、そこに駅が置かれている。鉄道の貢献がどの程度かはわからないが、真っ先に過疎化が進みそうなこの辺鄙な土地ながら、集落にはそれなりに活気があり、かつ興をそぐチェーン店の看板も見られず、余所者が眺めるには実に美しい景観となっている。夏の初めにイタリアを旅行したとき、なぜ彼の地はあれほどまで美しく、日本はそうでもないのだろうと恨めしくも思ったが、これを見ると日本もまだまだ捨てたものではない、とあっさり考えを改めてしまう。要するに、建設工事の資材や重機に乏しい昔は、自ずから自然に調和した美しい色彩と形態の集落ができて、それから余計な経済的余裕がそれを壊さなかった地域は、どこでも美しい景観が残っている、ということだろう。

会津若松を出てから3時間半ほどだったろうか、列車は只見駅に入る。
只見盆地という、四方を山に囲まれた伊賀の隠れ里のようなささやかな平地の端に、ひっそりと駅舎が立っている。山を背景に立つ列車の姿は、確かにマニアならずとも写真を撮りたくなるような絵である。
奥会津の最深部であろうこの町は、なんともいえない素朴な美しさで、子供の頃に見た(つまり今ほど脚光を浴びる前の)湯布院のような雰囲気すら感じられた。温泉もあるらしい。また一度ゆっくりと訪れてみたい。

只見盆地から先、線路は会津を抜け、越後に入る。30分ほど、まったく人家をみない一帯を抜けるあたりは、「国越え」という言葉が頭に浮かぶ。
その後はほどなく、終点の小出に至る。
さすがに尻と腰が痛んだが、まったく退屈のしない車窓の旅であった。
 



2週間のイタリア旅行もいよいよ終盤に入る。
5月31日、ウンブリアから一気に南下し、丸一日がかりでナポリの南、ソレント半島を目指す。
以前にも書いたが、イタリアの高速道路網はまさに「すべての道はローマに通ず」で、ローマから各地に血管のようにのびている。この日の移動も、アッシジからペルージャを経由してローマに向かい、そこからローマ市外を迂回する外環状線を抜けて、ローマとナポリを結ぶ路線へと入っていく。
ナポリに向かう路線に入ると、中部・北部の路線とは趣が変わる。道路の幅員が広がり、行き交う車の平均速度はさらに上がり、サービスエリアの間隔が広がる。山々の稜線も高くなり、また違う地方に来たと実感させられる。
ナポリの南、港町ソレルノで高速道路を降りると、そこからはソレント半島南岸の崖道を這うように走る。ナポリ湾の南辺を20kmほど地中海に迫り出したソレント半島は、標高数百mの急峻が屏風のように続き、海岸線にも平地をほとんどもたない。それがかつてローマ帝国の皇帝も愛した景観を創り出し、またローマ帝国滅亡後も栄えた海洋国家を成立せしめたのだろうが、炎天下を子供を乗せてホテルに向かうドライバーには酷な地理である。ソレント半島南岸の中心であり、我々が宿をとっているアマルフィの町まで、ソレルノからおよそ15kmほどの距離だが、到着には1時間ほどを要した。

そうして苦労して到着したアマルフィは、急峻と青い海、淡い色の街並みの組み合わせが美しい町。掃き溜めのようなささやかな平地に重なり合うように立ち並ぶ建物。街中に入ると、土産物屋と観光客が犇めき合い、想像以上に大衆的で(旅の初めのころに訪れたリビエラの街の方が随分と上品で歩きやすい)、あまり美しいとはいえないが、海辺から眺めると、独特の旅情をかきたてられる。
申し訳程度に砂を集めたビーチには、街並みと同じようにびっしりと海水浴客のパラソルが並ぶ。ちょっと密度が高すぎて、優雅なリゾート、という感じにはいかないが、街並みの一部と思って眺めれば、それなりに美しい。
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街の東端、ビーチを見下ろす海岸沿いに宿をとった。テラスでとる朝食が素晴らしい。
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ソレント
この地域を周るのなら海路が良い、というガイドブックやホテルスタッフの勧めに従い、フェリーで海岸線の景観を楽しみながら、周辺の町を巡る。まずは途中、ポジターノという街を経由し、ソレントに向かう(下の写真はポジターノ)。
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ソレント。半島の名前にもなっている、この地域最大の街である。
海辺に這い蹲るようなアマルフィとは異なり、ソレントの街は崖の上に開けた台状の平地に広がる。
ある程度空間的な広さがあるためか、歩きやすく、ウィンドウショッピングも楽しい。
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イタリアはほとんどの観光地で、観光用の馬車を見かけるが、このソレントも例外ではない。これを見かけるたびに、長女の機嫌が良くなるので、いつも助かる。
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確か去年、私が所属していたコンサルティング会社の世界のパートナーが集まる会議が、ここソレントで行われたはずである。よくもまあ、こんな遠いところでやったものだ、と思う。

カプリ/青の洞窟
この地域に来て外せない観光の目玉である。
団体旅行でも、必ず組み込まれている。
ソレント半島の数km先に浮かぶカプリ島には、ソレントから高速船で渡るのが最もメジャーだが、宿泊しているアマルフィからも船が出ている。満員の船で、その小島に向かう。
ソレント半島と同じく、周囲のほとんどを崖に囲まれたカプリ島は、商船が着岸できる港が一つだけある。
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生憎の天候で、空はどんよりと曇っている。このあたりの海は時化ることが多く、時化たり、時化で干潮を逃したりすると、青の洞窟には入れない。そのため、多くの団体旅行がこの洞窟の目指す一方で、断念して帰らざるを得ない人々も多い。私も10年ほど前に来たときには、波が高く洞窟観光は諦めざるを得なかった。この日はどうか、と不安になったが、港から洞窟まで行く船はなんとか出航した。波に飲まれそうな小船に、難民のように観光客が犇めき合って、島の周囲を回る。

島を回ること40分ほどで、やっと洞窟の入り口に到着。
ただ、ここからが凄い。
洞窟の入り口は、海面からの高さが1mにも満たない小穴であるため、3-4人乗りの手漕ぎボートに乗り換えなくてはならない。しかしながら洞窟のスペースと、それに伴うボートの数に限りがある。一方で、洞窟に入りたい観光客を乗せた船は次々と到着する。バスやタクシーで陸路やってくる人もいる。要するに、手漕ぎボートに乗り換えるまでの順番待ちが発生する。
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そして、これが長い。30分以上は待たなければならない。その間、エンジンを切った船でぷかぷかと波に揺られ続ける。我々を含め、船酔いで乗客の顔色がどんどん悪くなっていく。
やっとまわってきたボートには、家族4人で乗り込むことができた。さっさと見て帰りたいところだが、ボートはまず「入場券売り場(これもボート)」に向かい、ここで一人10ユーロの入場料を払わされる。ボートに座って延々とチケットを売っているオヤジたちは、よく船酔いしないものだ。
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そこからいよいよ小穴をくぐって洞窟に侵入!
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どんな魅惑的な世界が広がっているかと思いきや、闇の中に手漕ぎボートが遭難者のように集まっており、不気味である。
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確かに洞窟の外から海中を通じて差し込む太陽光が、洞窟の海水を底から青く照らして、神秘的な色合いを見せているが、窮屈なボートの中で、娘は怖がって泣き始めるし、まったくロマンチックでもなんでもない。なんとか船頭に家族写真を撮ってもらったが、真っ暗で何だかわからない。子連れでの訪問を考えている方には、是非やめたほうがいいと助言したい。
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島に戻ると、昼食を兼ねて休憩し、船酔いをおさめる。
その後、ケーブルカーで崖の上にのぼる。「カプリ」と言う名の町は、崖の上に広がっている。各界著名人の別荘が点在する島だけあって、高級ブランドの店が並ぶ。ただ、ここも、北イタリアの街に比べると、多少バブルな、下品な金持ちの雰囲気がして、あまり好感をもてない。
展望テラスから港を眺めていると、見ず知らずの観光客から、娘がかわいいので一緒に写真を撮って良いか、とリクエストされる。こういうことはこの旅の間何度かあった。親バカ的には、嬉しい限りである。
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夜は古い砦の跡を改装したレストランで、街並みの夜景を見ながらディナー。
味もサービスもしっかりした、良い店であった。
これからあの恐るべき低サービス品質の国に戻るのかと思うと、ぞっとした。
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明朝ローマに向かい、当地で一泊して、ボストンに帰る。2週間のイタリア旅行も、もう終わろうとしている。
MBAの2年間は、みなあちこちに旅行にいくものだが、家族そろってこれだけまとまった旅行が出来る機会というのはそうあるものではない。次女はもちろん、長女が将来どれだけこの旅行のことを覚えているかは期待できないところだが、我々夫婦には、家族のふれあいを含め、大きな思い出になったと思う。
また、散々カネを使ってしまったという経済的な意味も含めて、来週から始まるサマーインターンの良い動機付けにもなった。

ボストンに帰ったら、また頑張ります。


2週間のイタリア旅行も半ばを過ぎ、ウンブリア州に入る。

観光の目玉は世界遺産の街、アッシジ。聖フランチェスコの出身地であるため、米国サンフランシスコの姉妹都市にもなっているが、当然街並みはサンフランシスコとはまったく関係なく、丘の上に累々と築き上げられた城壁都市の傑作である。1997年の大地震でほとんど崩壊したものを、イタリア人が誇りと執念で崩壊前とほぼ同じ状態に再建したという。お陰で見事な街並みが今でも見られるわけだが、もともとレンガではなく石積みが多い壁のところどころは、新しいレンガや石、漆喰で固められていて、地震の傷跡を感じさせる。
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町の中心部の路地を入ったところにひっそりと立つプチホテルが、この地方に滞在する間の宿。小奇麗に管理されたホテルの小さなテラスからは、ウンブリアの農村風景が見渡せる。
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町の端の崖に立つ聖フランチェスコ聖堂は、町の外から見上げるとチベット寺院をすら思わせる威容であるが、町の中から見ると、色合いとデザインが極めて優しく、つつましい印象を受ける。
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アッシジのほかに、かつて中田英寿が活躍した州都ペルージャ、ワインとオリーブオイルの町モンテ・ファルコなどを訪ねる。いずれも魅力的な景観で楽しませてくれるが、みな丘の上にあるため、妻と2台のベビーカーを押して歩く身にはなかなかきつい。

そうして腹が減るせいもあるのかもしれないが、この地方で味わう山の幸は格別に旨い。
代表格は、トフュフやポルチーニなどのキノコ類。
これに子牛や、鳩などのジビエ。
ウドンのような独特の太麺パスタ。
そして赤ワインとオリーブオイルである。
やはり3度の食事が旨いのは、楽しいたびに欠かせない要素である。



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経営コンサルタント
趣味:
旅行、ジャズ鑑賞
自己紹介:
世の中を素直に見ることが苦手な関西人。
MITスローン校でのMBA、プライベート・エクイティでのインターン、アパレル会社SloanGearの経営、そして米国での生活から、何を感じ、何を学ぶのかー。

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