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「 Travel 」
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10日間のタンザニア旅行の最終地は、インド洋に臨む静かな浜辺。
Pongwe Beach Hotelという地元資本の小さなリゾートホテルである。
白い砂と青い海、それ以外に何もないが、それだけで十分贅沢。米国からアクセスの良いカリブ海の島々に訪れたときも、海の青さに感動したが、ここにはそれに加えて、過度の商業主義から離れた、素朴で上質な時間があった。
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ザンジバル島は基本的に沖縄に似たサンゴ礁の島であるが、特に島の東側は海岸線から300-500mくらい沖をサンゴの岩礁が覆っていて、浜辺は遠浅で非常に穏やか。干潮時と満潮時の海岸線が大きく異なり、毎日午前中の干潮時は、部屋の前の浜辺から随分沖の方まで歩いていける。満潮時は完全に水に沈んでしまう沖合いの浅瀬で、地元の女性が海藻を採っていた。麻袋にいっぱいの海藻を頭に載せて歩く姿は、絵のようである。
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澄んだ水には稚魚やヤドカリ、カニなどがいて楽しい。娘もちょっと怖がっていたが、綺麗な貝殻を拾って喜んでいた。
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プールも、外資系リゾートホテルのように巨大ではなく、こぢんまりとしているが、海側のプールサイドが掛け流し式になっていて、開放感がある。
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プライベート・ビーチとなっている浜辺への侵入者を防いだり、犬などの動物を追い払ったりするために、常時警備員が見張っているのだが、雰囲気を壊さないようにという配慮か、昼間はマサイ族の衣装を着た男性が巡回している。我々が見てきたマサイの人々に比べると大柄で頭の形も多少違うような気がしたので、どこの出身かと聞いてみたが、マサイ族で出稼ぎに来ている、と言い張っていた。まあそういうことにしておこう。

このホテル、出来てまだ10年にもならないとのことだが、東海岸でホテルを建てる場所を探していたオーナーが土地を購入したときは、茂みの中に古びたバンガローが一軒ぽつんと立つだけの土地だったらしく、購入価格はたったの300ドル。ライフラインは皆無の土地なので、自家発電装置を設置し、海水の浄化装置を設置し、整地をして建物を建て、徐々に今のかたちになっていったそうだ。建物のレイアウトは、サンゴの岩がごろごろする自然の景観を上手く活かして作ってある。一方で、周囲は未だにほとんど何もない土地。ホテルから車で2-3分も走ると、地元の人々が住む家が見えてくる。どこも電気は通っておらず、家も朽ちかけたようにぼろぼろである。

このホテルに代表されるように、今回の旅行で我々が見てきたアフリカは、アフリカの中の非常に安全で恵まれた環境の場所だけであり、これを見ただけではアフリカを語る資格はないだろう。それでもやはり、実際にその場所に行き、舞台装置の真ん中に自分を置いてみると、自分が知らなかった世界に驚かされ、感動する。アフリカ最初の旅行としてはそうした発見が多く、トラブルも少なく、非常に良かったのではないかと思っている。これで5年後に娘の記憶の片隅に何か残っていれば言うことはないのだが・・・、まあきっと忘れてるんだろうなあ。

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ザンジバル島はスパイスで有名。
アラブ人、そして英国に支配されていた時代、奴隷と並ぶ主力貿易商品は、象牙とスパイスであった。奴隷と象牙はもはや貿易商品として取り扱われることはないが、スパイスは依然としてこの島の特産品であり、東アフリカや中東、インドなどにも輸出されているらしい。多種多様なスパイスが生産されている農園は、観光客の人気スポットにもなっている。

ザンジバル島二日目は、島の西にあるストーンタウンから、さんご礁に囲まれたビーチのある島の東側へと移動する。その移動の途中に、スパイス農園を訪ねてみることにした。昨日空港からホテルまで乗せてもらったジョンという運転手に頼んで、スパイス農園経由で東海岸のホテルまで、スパイス農園に立ち寄る分の追加料金なしで行ってもらうように話をつけた。この不景気、観光客も少ないので、お互い悪い取引ではない。

連れて行ってもらったスパイス農園は、ちょっと胡散臭さの漂う、ジャングルのようなところ。かつて農園だったが今は離農したところを、勝手に公開してカネを取っているのではないかという気もしたが、案内役として紹介された男はそれほど悪い人間でもなさそうだったので、一応信用して着いていく。
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車を停めたところから2-3分行ったところで立ち止まると、案内の男が傍らの木の葉をちぎって、匂いを嗅がせてくれた。匂いだけではわからなかったが、手にとってみると黄色い色がつく。ターメリックの木だった。容器に入った粉末のターメリックは見たことがあるが、こうして生でみると、まったく印象が違う。さらに雑木林のような周辺の歩きながら、生姜、シナモン、香水のもととなる花、口紅のもととなる植物などを見てゆく。どれもちょっとちぎって匂いを嗅がせてくれるのだが、香りの輪郭が非常に鮮やかで、清々しい。そしてどれも実際に木になっている姿を見るのは初めてのものばかり。
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コショウの実が赤いというのも、初めて知った。噛んでみたが、刺すように辛かった。
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一通り回ったところで、少量ずつにパッケージされたスパイスの販売。まあお約束なので、多少買い求める。

そうしているうちに、辺りになっているココナツの木を見ながら、この木に自在に登ってあの実を取ってくる人がいるんだが見てみるか、と案内の男が聞いてきた。折角なのでお願いすると、小柄ながら筋肉の発達した男が徐に一本の木に近づいていって、その幹にパッと飛びついた。
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そしてあっと思う間もなく、男は凄い勢いで木を登り始めた。「空を飛ぶように軽々と登っていくので、彼はミスター・バタフライと呼ばれている」ということだったが、その様子はバタフライ(蝶)というよりはサル。
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木を登りきったところでココナツの実をいくつか切り落とし、更にまだ余裕があるのか、木にしがみついたまま歌ったり踊ったりし始めた。人間業とは思えないパフォーマンスで、緊張して固まっていた娘からも笑顔がこぼれた。歌いながらスルスルと木を降りてきたミスター・バタフライは、切り落としたココナツの実を拾うと、鉈のように刃渡りの広いナイフで実の一角を切り落とし、中のジュースが飲みやすいように加工してくれた。
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炎天下にあったにもかかわらずジュースの温度はそれなりに低く、自然な甘みと多少の炭酸が溶け込んでいて、喉の渇きを癒してくれた。新しいものには慎重な長女も、面白いオジサンのススメに従って恐る恐る飲んでいたが、こちらは口に合わなかった様子。
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都合1時間ほど滞在していたが、入場料のようなものはない。案内の男やバタフライさんのサービスへの対価はチップだけなのだが、私のように日本の仕組みに慣れ過ぎた人間には、こういう仕組みはやはりなかなか馴染みにくい。一応去り際に握手をしながらそれぞれの人間に小額のチップを渡したが、渡しながら相手の顔色を伺ってしまい、どうも具合が悪かった。いっそ言われただけ払うから入場料を取ってくれ、と言いたくなる。ただ、後で運転手のジョンに聞いたところでは、彼の家族四人の一ヶ月の生活費は、家賃や子供の学校の費用など全て含めて総額600ドル、つまり単純平均で一人一日5ドル。タンザニアの中では比較的生活水準の高いザンジバルにあって、彼の家族は「中の上」クラスであろうから、多くの人は一日2-3ドルの生活というところか。そうした相場観からすれば、我々が払う「小額のチップ」も、彼らからすれば十分意味のある金額なのかもしれない。


午後3時頃、途中の酷い悪路を越えて、車は目的のホテルに到着。客室はすべて「離れ」で全16室しかなくこじんまりとしているが、全ての部屋が白い砂浜、そしてその向こうの青い海へと繋がっていて、絵のように美しい。
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タンザニア旅行の最後の2泊3日、ゆっくりと過ごせそうである。

 


未明のンゴロンゴロを発って長躯5時間のドライブでキリマンジャロ空港に入り、タンザニア本土の大地を後にする。ローカル航空会社が運行するプロペラ機の機内は意外に綺麗で、飲み物のサービスにもケニア・ビールのタスカーが含まれていて嬉しい。隣に座った娘と、赤茶けた大地を窓の下に見ながら、サファリに手を振る。また戻ってくることはあるのだろうか。

南東に進む飛行機の窓の外には、1時間ほどでインド洋の青い海岸線が見えてくる。するとすぐに飛行機は高度を下げ、ザンジバル島へと着陸する。ザンジバルというと、我々の世代の男の子の多くは機動戦士ガンダムに出てくる宇宙船を思い出すが、インド洋に浮かぶ神奈川県ほどの大きさの島の名前である。もう着陸するか、という頃になって突然窓の外が暗くなり、窓ガラスに水滴が着き始めた。熱帯特有のスコールのようである。飛行機が滑走路の脇に止まってタラップが下ろされた頃には、もう土砂降り。何とか空港ビル(というほどのものでもないが)に移って、機内預かりの荷物を受け取り、ビルの外に出てみると、水はけの悪い駐車場はまるで池のよう。ンゴロンゴロのホテルに頼んで手配してもらったタクシーに乗って島の中心都市ストーンタウンへと向かうが、途中の道路も完全に冠水していて、凄い光景である。それでもお構いなしに、車はじゃぶじゃぶと水を掻き分けて進む。やがて沿道の建物が掘っ立て小屋から歴史を感じさせる重厚な作りにかわってくると、ストーンタウンに入る。この頃にはすっかり青空に覆われてきたのだが、相変わらず道路の水はけは悪く、白壁の建物が所狭しと迷路のように並ぶストーンタウンも、やはり水浸し。白壁もネズミ色になってしまっている。ともかくもホテルに到着し、一休み。
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1-2時間、ホテルの部屋で「避難」した後、もうそろそろ水もひいているかと、恐る恐るホテルの外に出てみる。
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と、水溜りは減っているのだが、日差しが刺すように強烈で、街中からさっきの雨の水分が蒸発していて、不快なことこの上ない。なんとか日陰を探しながら歩く。ホテルの周りは外国人観光客が利用するホテルやレストラン、バーが集まっており、これらを目当てにした連中も集まっていて、1分と歩くたびに、「コンニチワ」と声をかけられる。中にはサングラスやナッツ、スパイスなどを売る者もいるが、多くはガイドか民芸品売り。ガイドは免許証のようなものを見せながら、2時間で10ドルで良い、と追いすがってくるのだが、この環境下でとても2時間も歩けるとは思えない。「コンニチワ」と言われるたびに「サヨウナラ」と返して、立ち止まらずに歩く。

世界遺産にも登録されているこのストーンタウンの街並みは、天候の影響もあって、「美しい」という形容詞を与えるにはちょっと躊躇われるものだったが、アラブ、スワヒリ、ヨーロッパ、ペルシャ、インドなどの文化が混ざり合った、複雑で独特な世界。三角形の半島を埋めるように出来た市街地の中は、話には聞いていたが完全に迷路で、地図を見ながら歩いてもすぐに方向を見失う。
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街の本格的な発展は、17世紀後半にアラビア半島からやってきたオマーン人が、それまで島を占領していたポルトガル人を追い出してここを貿易の根拠地とし、1840年に島を平定してザンジバル王国を建国してかららしく、そのイスラム文化がこのような街路を作ったという。確かに、これまで訪れた街の中でも、ポルトガル・リスボンの旧市街や、ウズベキスタン・サマルカンドの旧市街など、イスラムの影響を受けたとされる街はどこも迷路のようになっていたと思う。しかし、イスラム文化の影響を受けたら何故迷路のような街になってしまうのか、そこの必然性、因果関係は、もう一つ良くわからない。ともあれ、19世紀の街の繁栄は相当なものだったらしく、日本からも女性が売春婦として売られてきたりしていたという。当時彼女らが客を引いていた建物が、路地を進んだ旧市街地の奥地に今も残っている。当然今はそうした日本人売春婦はおらず、三階建ての建物の一階は土産物屋になっていて、オバマ・グッズが売られていた。
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歴史とは因果なものである。貿易で発展したザンジバルの最大の「商品」は、アフリカ人奴隷だった。東アフリカの各地で捉えられた人々は、この島に集められ、アラブ商人によって、アメリカ大陸に奴隷として売られていった。かつて奴隷市場だった場所に立つストーンタウンの大聖堂の脇には、奴隷の「倉庫」や生々しい模型が公開されている。
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奴隷を売って得た金で、アラブ人は街を大きくし、日本人売春婦まで連れてきた。そして21世紀、奴隷として米国に売られていった人々の子孫が支持し、ケニア人を父に持つオバマ氏がアフリカ系市民として初めて米国大統領に就任した。今、アラブ人が建てた白壁の建物にはアフリカ人が住み、そのオバマ氏の顔がプリントされた土産物を売っている・・・。考えてみれば、凄まじい物語である。

それにしても、オマバ大統領はやはりアフリカでは人気らしい。ここが彼の父親の故郷ケニアの隣国だから、尚更かもしれない。が、オバマ氏の経済政策は、基本的に富裕層に高い税率を課して、貧困層に再分配しようというもの。タンザニアのサファリやザンジバルに観光で訪れる米国人は富裕層の部類に入る人々だろうから、そうした人々の所得を削ることは、少なくとも直接的にはここの人々にプラスに作用しないだろう。まあそんなことよりも、現地の人々にとっては、「黒人が米国大統領になった!」という事実そのものが重要なのかもしれないが。写真はオバマ・ステッカーを貼った日本製の中古車(無論、誰も田中商店が何かは知らない)。米国では良く見かけるステッカーだが、どこで手に入れたのだろう・・・。
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あまりの暑さと湿度で、やはり1時間も歩くだけでぐったりしてしまったが、ストーンタウンの街が独特な雰囲気と魅力をもっていたことは確かであろう。
昨日まではサファリ、明日からはビーチ。間に一日、こういう街歩きがあっても良い。




サファリ4日目、この日はンゴロンゴロ保全地域のクレーターの中に入る。

ンゴロンゴロは、大昔の火山活動でできたカルデラで、標高1,800mほどの円形の平地を、標高2,400mほどの外輪山が取り囲んで出来ている。東西約19km、南北約16kmで、カルデラとしては世界有数の規模を誇る。全体の大きさだけでいうと日本の阿蘇カルデラ(東西約18km・南北約25km)と同じような規模だが、外輪山に囲まれた盆地が非常に平坦なので、感覚的には阿蘇よりも大きく見える。そしてその盆地に、東アフリカのサバンナで見ることのできるほとんどの動物が生息している。セレンゲティに比べると、キリン、インパラ(食料となる木や茂みが少ない)、ワニ(外輪山を越えて来られなかった)などはいないが、希少なクロサイを見ることができるのが特徴である。人の立ち入りも慎重に管理されており、盆地の中に降りる道は3本しかない。もちろん、盆地内での居住や商業活動は禁止。マサイ族もここにはいない。ホテルも全て外輪山の上に建てられている。まさに動物の楽園として保全されているのである。

そんな背景からか、ここの動物たちは、セレンゲティのそれ以上に人の存在を気にしない。シマウマやヌーも、警戒心が薄れているのか、あまり密な群れを作らず、広く散在している。サファリの車は予め整備された道(もちろん未舗装)しか通ることが許されていないのだが、その道で動物たちがゴロゴロしていて、なかなか進めなかったりもする。ただ時間に追われないサバンナの散策では、そんなこともご愛嬌。天井の開け放たれたサファリ用四駆車で風を受けながらのんびりと行く。
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盆地にはいくつかの小さな池と大きな湖がひとつあって、湖にはこの時期、フラミンゴが飛来している。ここを含めて3箇所ほどを、季節に応じて移動しているそうだ。運転手のセレマニが遠くの湖を指差して、「あそこにフラミンゴがいる」と教えてくれたときは、なかなかわからなかったが、徐々に近づいてゆくと、何となくピンク色に見えた湖面が、実は無数のフラミンゴに埋め尽くされていることに気づかされる。とにかくもの凄い数である。またそのすぐ脇を、シマウマやヌーが徘徊しているという構図も、アフリカらしくて面白い。
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セレマニの運転技術は大したもので、窪地や小川も器用に乗り越えてゆく。それでも、大雨が降って道がぬかるむと、タイヤがとられて身動きできなくなることもあるらしい。そうしたトラブルが発生すると、客の国民性が出る、というのが彼の分析。彼によると米国人が一番付き合いやすく、車がぬかるみにはまると、大雨の中を一緒になって車を押してくれて、「こんなの見たことない!」「冒険っていう感じでいいね!」とむしろ喜ぶこともあるという。対照的に英国人は、ぬかるみからの脱出がどんなに大変でどんなに時間がかかっても、まず絶対に手伝ったりせず、車の中で怒っているらしい。またフランス人は、車のトラブルなどはあまり気にしないのだが、お目当ての動物、特に旅行代理店で「必見ですよ」と言われた動物が見られないと、カンカンに怒り出すらしい。日本人は?と尋ねると、まずあまり来ないのと、来たとしても日本の旅行代理店の添乗員が同行してきて、苦情などはその添乗員に言うため、自分にはわからない、とのこと。なるほどなあ、と思う。

セレンゲティほど広くなく、また道も少ないので、見所には車が集中する。走っていて、行く手に数台のサファリ車が集まっているのが見えてくると、だいたいそこにはライオンやらチーターやらがいる。皆、相変わらず人を恐れない。またこちらも、彼らが満腹で人を襲う気がないと知っているため、あまり恐れがない。

ただ、クロサイに出会ったときは、多少の緊張があった。道を横切って湖の方に向かう一頭のクロサイに出会ったので、写真を撮るために車を止めたのだが、クロサイが通り過ぎた後でエンジンをスタートさせようとすると、動かなかったのだ。バッテリーとスターターを結ぶ回路の結着が弱まっていたのだが、クロサイは凶暴で気分を害すると攻撃してくるらしく、かなり遠くまで去ってこちらを気にしていないのを確認してから、ボンネットを開けて素早く修理。無事車は走り出した。
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これで4日間に及んだサファリ体験もおしまい。
明日は未明にここンゴロンゴロを発し、キリマンジャロ空港から飛行機に乗って、ザンジバル島へと向かう。
最後にセレマニと記念撮影。
お世話になりました。
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 サファリ旅行も3日目。
今日からはセレンゲティ国立公園を離れ、一昨日に通過したンゴロンゴロ保全地域へと場所を移す。
3日目ともなると、サバンナの広大な景観にも、未舗装の悪路を行く四駆車の揺れにも慣れてくる。それどころか、車の窓のすぐ外を野生の動物が歩いているという状況すら、当たり前に感じられてくる。贅沢な話である。
そんなわけで、「中だるみ」の防止も兼ねて、ンゴロンゴロへの道中は、動物だけでなく人間にもスポットを当てることにした。

まず一つ目は、オルドヴァイ(Olduvai)渓谷の見学。セレンゲティの大草原からンゴロンゴロの山岳地域へと地形が移行していく途中に現れる40kmほどの渓谷で、ミニ・グランドキャニオンといった景観であるが、ここが有名なのはもちろんその渓谷美ゆえではなく、そこから出土した化石のためである。その化石とは、1959年に発見された猿人アウストラロピテクス・ボルセイと、1964年に発見された原人ホモ・ハビリスの骨。特に250万年前から200万年前まで存在していたホモ・ハビリスは、現在分かっている限り最も初期のヒト属であり、我々(ホモ・サピエンス)の祖先である。ネアンデルタール人や北京原人、ジャワ原人など、歴史の授業で昔聞いたことがあるような初期ヒト属は皆ここから進化していったと考えられており、今世界中にいる人類の祖先を辿っていくと、すべてはこの渓谷に行き着くことになる。時間軸・空間軸ともにスケールの大きすぎる話で、なかなかピンとこないが、なんとなく凄い場所にいるような気にはなる。
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もう一つは、マサイ族の集落の訪問。マサイ族とはタンザニア北部からケニア南部に至るサバンナで伝統的な放牧生活を続ける先住民族のことで、今回訪れた地域では、アルーシャ北郊からンゴロンゴロ周辺にかけて、所々にその小集落をみることができる。国立公園に指定されているセレンゲティや、動物の保全活動が注意深く行われているンゴロンゴロのクレーター内部は政府によって放牧が禁止されているが、それ以外の地域では彼らは今も自由に行き来しながら牛を追っている。タンザニアでは都市部を除くほとんどの国土が国有地であり、マサイ族の放牧地域も国が所有していて、また彼ら自身に縄張りの意識があまりないため、本当に自由に動けるらしい。ケニアとの国境ですら、茂みの中を自由に歩く技術をもつ彼らにとっては何の制約にもなっていないようだ。そんなマサイの人々も、日用の生活物資や、彼らの最も重要な財産であり「貨幣」でもある牛を獲得するために、ある程度の現金収入が必要であるらしく、集落によっては車一台あたり50ドルでサファリツアーの旅行者を迎え入れて、生活の一端を公開している。我々もセレマニに頼んで、そうした集落の一つに案内してもらった。
案内役として出迎えてくれたのは、20代くらいのマサイの青年。他のマサイの人々と変わらない格好をしているが、きちんと英語で説明してくれる。我々のような観光客を迎えた場合の流れが出来上がっているらしく、段取り良く「出し物」が続いていく。まずはマサイの人々による歓迎の歌と踊り。女性たちが主に唱和する歌は素朴な節で、もちろん何を言っているのかまったくわからないが、草原の空に消えていくその声色には独特の迫力がある。
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一方で男性たちは、隊列を組んで踊りを披露してくれていたが、やがてそれも踊りの一部なのか、一人ずつ跳躍を始めた。皆跳躍力が並大抵ではなく、垂直跳びで1mくらい跳びあがっている男性も少なくない。飛んでいる、という漢字の方が適当かもしれない。
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マサイの人々は基本的に家族単位で小集落を営んでいる。一夫多妻制で、生活を支える財産である牛を多く所有する男性は、複数の妻を娶ることができる。妻とその子供で一軒の家(といっても写真のとおり掘っ立て小屋であるが)を成し、夫は独居して妻の家をまわる。必然的に、大家族が形成される。一家族に過ぎないにも関わらず、複数の小屋が集まった集落になるのはそうした理由からである。独特な生活習慣のため、ほとんどの場合婚姻はマサイ族の間で行われるらしいが、花嫁探しも大変である。何せ、出会いの機会がない。身の回りにいる女性は全て身内なのだ。案内してくれた青年は独身だというので、どうやって花嫁を探すつもりか聞いてみたら、このあたりは比較的集落も多いから、そんなに難しいことではないと思う、と笑顔で応えてくれた。しかし彼はそういうが、私の目には見渡す限り草原と潅木しかなく、360度集落など見当たらない。すぐ近くの集落はどこにあるのか尋ねてみると、地平線近くの山影などを指差して、あの山の麓にも、その山の麓にも、あの茂みの向こうにもある、みんな歩いて行ける距離だよ、と教えてくれた。
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民族融和、教育水準向上のために、政府は彼らに就学を勧めているらしいが、遠く離れた学校に通うには費用もかかり、また草原の暮らしを続ける限りはあまり就学のメリットもないため、このあたりでは10人に2人くらいの割合で家族の中から子供を「選抜」して、中学校程度までは行かせているらしい。案内をしてくれた青年も、そうした経緯から中学校まで卒業している。一応、その先も学業を続けるという選択肢もあったそうだが、草原の暮らしに戻ったようだ。セレマニによると、マサイ族の中にも大学まで進学し、政府機関などで就業する人もいるらしいが、そうした人々でもいずれは草原に帰って、昔ながらの暮らしに戻るのだという。また、10人のうち2人に選ばれなかった残りの子供たちには、集落の中で「家族学校」を作って初等教育を行っている。「教室」も粗末な掘っ立て小屋だが、子供たちはちゃんと制服らしきものまで着ていた。
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帰り際、ささやかな「経済協力」のためにと、彼らが製作して訪問者に売るビーズ細工の土産物をいくつか、彼らの言い値で買い求めた。
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しかし、買い求めながら、何となく考えさせられた。確かに彼らは、スローンの経済学の授業で学んだ分類で言うと、一日の生活費が1ドルを下回る最貧困層であろう。掘っ立て小屋の家屋には当然電気や上下水道などは供給されておらず、寝所も土を土俵のように盛って藁や敷物を敷いただけである。食料もほとんど牛の乳と肉ばかり。2000年代に入って年率5-8%という急速な経済成長続けるタンザニアにあっても、そうした富の蓄積から取り残されているといっても間違いではないだろう。しかし、彼らは変わる気がないというか、そうした伝統的な生活様式に誇りを持っていて、積極的にそれを続けているのである。資本主義社会に住み、経済成長を絶対的正義であるかのように教わってきた我々とは、価値観が根本的に違うらしい。こういう人たちを前にすると、世界の格差拡大だの貧困だのといった議論が、先進国的価値観の押し付けによる一方的で勝手な憐憫ではないかとさえ思えてしまう。

ちょっとしたカルチャーショックを受けた、異文化交流であった。



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経営コンサルタント
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世の中を素直に見ることが苦手な関西人。
MITスローン校でのMBA、プライベート・エクイティでのインターン、アパレル会社SloanGearの経営、そして米国での生活から、何を感じ、何を学ぶのかー。

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