昨年の秋、ボストンはレッドソックスの優勝に沸いたが、この夏はNBA(全米プロバスケットボールリーグ)のボストン・セルティックスの優勝に沸いた。かつて赤い服を着てはしゃいでいた人々が、今は緑の服をきて騒いでいる。なにせ、最近はすっかり強豪に数えられているレッドソックスとは異なり、セルティックスは過去最多の優勝回数を誇りながら17年間も優勝から遠ざかっていたチームなので、コアなファンにはたまらない興奮だったのだろう。
そして、幸運にも、そのNBAの優勝決定戦(NBA final)を、ナマで観戦してきました。
NBA観戦2戦目にして早くも優勝。17年間も待ったファンに申し訳ないようなオイシイところ取りである。
オイシイ思いをさせていただいたのは、前回と同じく、サマーインターン先のプライベート・エクイティ・ファームのお陰。チームに投資している(正確にはファームとしてではなく数名のパートナーが個人で投資しているらしい)ので、このプレーオフ最終ラウンド第6戦のスイートルームを早々に抑えることができたらしい。NBAの事情には極めて疎い私ですら、何か凄いことに違いない、と感じる。
行ってみると、さすがに凄い雰囲気。
会場はチームカラーの緑一色である。
対戦相手のロサンゼルス・レイカーズは全米でもかなり有名な人気チームのはずだか、この日のスタジアムの中で、おおっぴらに彼らを応援する人は皆無であった。
国歌斉唱でゲームの開始が告げられる。毎回思うが、こういうときの米国国歌斉唱は、気分を高揚させる。
観戦も2回目だけあって、セルティックス主力選手の顔と名前もある程度一致し、以前より面白い(すみません、ど素人な感想で)。
試合は本当の出足を除いてセルティックスが一貫してリード。ガネット、ロンド、レイ・アレン、ピエルスといった主力どころが、争うように得点を決めていく。対するレイカーズは、エースのコービー・ブライアントが抑えられ(と言ってもチームで彼だけが20点以上得点していたが)、ホームゲームに比べるとシュートの決定力も低く、なかなか反撃ののろしが上がらない。やはりホームのアドバンテージは大きいのか。
第4クオーター、遂にセルティックスの得点が100の大台を上回り、残り5分をきったあたりから、場内は既に優勝ムード。ベンチでも互いを祝福しあう姿が見かけられるようになる。
さらにセルティックスは得点を重ね、得点は130点を上回り、時計は残り4秒。
そして優勝!"We Are The Champion"が鳴り響き、紙吹雪が舞う。体育館だけあって音が反響し、凄い状態である。
MBAはピエルス。これも素人目にも納得のいく結末。「この賞は、ここにいるチームの皆、そしてオマエたちファンのお陰だぜ!」みたいなことを叫び、ファンはまた熱狂。こういうとき、やっぱり敬語のない言語の方が、ファンと選手との距離感が近いのかもしれない。
そして今日、出勤前に携帯端末に一通の電子メールが届いた。曰く
「セルティックスの優勝トロフィーが今日朝8時半から夕方5時半まで、当社受付の前に飾ってあるので、よかったら写真撮りに来てね」
出社してみると、果たして文字通り、普段観葉植物か何かを置いてあるような場所に、無造作にトロフィーが置かれていた。何かケースに入っているわけでもなく、警備員がいるわけでもない。皆思い思いに立ち止まり、眺めたり、触ったり、抱いたり、持ち上げたりして、写真を撮って去っていく。お陰で指紋でベタベタである。
私も記念に一枚。
株主サマの強さを改めて痛感した。
お世話になっているPEファームは、世界で投資プロフェッショナルが200人ほど活躍する、同業界としては例外的なほど大所帯なファームだが、その今年のサマーインターンは総勢9名。私以外では、ここボストンで働く学生(米国人)が4名、ロンドンが2名、香港が1名、日本で既に投資した会社の価値向上にあたる学生が1名、という構成である。私を含めた日本人2名以外は、すべてHBS(ハーバード・ビジネス・スクール)の学生。なかなか狭い世界である。
受け入れ体制はしっかりしていて、全員にボストンでトレーニングを3日半みっちりとやってくれた上で、各自がそれぞれのオフィス、それぞれのチームへと散っていく。私は、いろいろとわがままを受け入れていただき、ここボストンで5週間、東京で5週間という変則的な形態をとっていただいたので、まずはボストン本社内のあるチームに加わることとなった。
そしてそのインターンが始まってから早くも2週間が過ぎた。全体の2割、そして私のボストンでのインターン期間の4割が過ぎたことになる。毎日やることも多いのだが、いろいろな意味で刺激が多く、考えさせられることも多い。風化してしまわないように、いくつか書き残しておきたい。
人材のレベル
恐ろしいほどにスマートな人々の集団である。大学を出て鉄道会社に就職した私がそこでの4年ほどの経験の後にコンサルティング・ファームに就職した際も、周りのあまりのレベルの高さと自らの力のなさに歴然とし、戦慄さえ覚えたが、それに似た衝撃を受けた。皆、1を聞けば10を知る、といった知的レベルの高さで、隙がない。しかも凄いのは、それにほぼ例外がないこと。よく言われることだが、どんな組織でも、たいがい組織を支える活躍をしているのは全体の2割の人々で、その他の8割は、必ずしも優秀でなかったり、やる気がなかったりするものだが、ここの人材はその優秀さの分布の下限が極めて高いところにあるのか、いわゆるダメな人がいない。
これは本当に凄いことで、実務上もいろいろな「違い」をもたらす。
まずは、人の運用。コンサルティング・ファームと同様、こうした組織では固定された上司-部下の関係というものはなく、投資案件ごとに3-4名から多いときは15名程度のチームが結成されるのだが、このチームの結成が、限りなく「誰が今空いているか」だけで決められるという。つまり「今のファームの中で誰が優秀か、誰がより力を発揮してくれそうか」という点は、皆が優秀であるという前提をおいたときに、あまり意味をなさなくなる、ということ。
あるいは、上司と部下のコミュニケーション。チームが結成されると、シニアなスタッフとジュニアなスタッフの間で上下関係は発生するのだが、各スタッフは上司への報告の際に、何がわかっているか、何を知っているかだけでなく、何がわかっていないか/知らないかについても、明確に伝えることが求められる。ジュニアなスタッフは、自らへの信頼を勝ち取るためにあたかも自分が「すべて」を知っているように振舞う必要はなく、自らがどの程度確信をもっているかを正確に伝えられればOK。シニアなスタッフも、「彼がこれまでの時間では調べられなかったということは、恐らくデータがないのだろう」と、非常に「ものわかり」が良い。もちろん、ジュニアなスタッフは実際にそうした信頼に足る力を持っているし、そうしたシニアスタッフの態度に甘えてサボることもしない。こうしたプロフェッショナルな信頼関係は、上司にとっても部下にとっても、非常にコミュニケーションのコストが下がる。
研ぎ澄まされた内向きの仕事
ここで作る資料の恐らく8割以上は社内向けの説明資料である。
これは、顧客に見せることを主目的として資料を作るコンサルティング・ファームとは、大きく異なる。外向けの資料というのも、銀行向けや投資対象企業向けの資料など一部存在するが、例外的ですらある。
ただ、この「社内」が、前述のようにとんでもなくスマートな人々であるため、猛烈に厳しい視線に晒される。不合理な、あるいは過度に抽象的で次の展開に繋がらないいい加減な指摘は、これまで経験した中では一切ない。またこちらに論理上の矛盾点や詰めの甘さがあると、確実に指摘される。社内における議論の厳しさの理由は、彼らがスマートだからだけではない。既に巨大な額に膨らんだ投資運用資金の過半は、いまだにこのファームのメンバーが出資した資金だからでもある。つまり、超カシコイ人たちが、自分のカネのかかった話に対して、前のめりで突っ込んでくるのだから、厳しいのも当たり前である。資金を出しているのはシニアメンバーだけではなく、額の差はあるが、若手もカネを出している。だから、出来るだけ確証の高い情報と提案をシニアメンバーにもたらし、彼らの経験と知見でできるだけ「正しい」判断をしてもらおうと、自らの知恵と体力を振り絞って投資対象先を分析する。
Get Things Done
仕事への集中力・切り替えも凄い。若手もシニアメンバーも、だらだらと無駄話をしたり、あるいは大して役に立たない分析や調査をだらだらとやったりしない。仕事にかかるときには寝食を忘れて没頭する。ランチは社員用の食堂(味も設備もすばらしい)で仲間と食べることもあるが、それも短時間。夕食は、ほとんど各自のデスクで仕事をしながら貪っている。集中力が切れてきたと思ったら、社内のジムに行って汗を流し、シャワーを浴びてまた仕事に戻る。一方で、仕事が終われば、さっさと帰る。定時というものもないので、仕事がなければ3時頃にでもいなくなってしまう。
ノン・ナンセンスというか、恐ろしいほどに無駄がない。
このあたりは、まだ自分は「旧来型」の日本企業文化の気質が残るのか、ちょっとついていけない気がするときもある。
ステータス
皆、自分の仕事に誇りをもっている。そしてそれを感じさせるような環境になっている。
皆、厳しい選別を勝ち抜いてきたという自負もあるだろう。例えば最もジュニアなアソシエイトという役職についても、大学新卒は採用せず、マッキンゼー、BCG、ベインといったトップコンサルティングファームか、ゴールドマンサックスなどの一部の投資銀行で数年以上の経験を積んだものに絞って年間数百名程度の面接を行い、その中から10名程度を採用する。そうして入った組織のメンバーが皆優秀であることからも、自らのステータスを再確認する。
オフィスがあるのはボストンでも最も賃料が高いビルの一つ。そこの最上階から数フロアを占拠している。眼下にはボストンの街が一望できる。迂闊にも、ちょっとエラくなった気になる。
デスクは若手から全員個室である。我々インターンの学生にも、名前のプレートが掲げられた4畳半ほどの個室が与えられる。それも無機質な安物のパーテーションで区切られた部屋ではなく、木をふんだんに使った落ち着いた部屋である。デスクも、かつて働いていた日本の事業会社の取締役の机より広い。立派過ぎて、未だに、ちょっと落ち着かない。
前述のとおり、社内にはジムも食堂も完備されている。
ライフスタイル
まだそれほど多くの社内の人を知らないが、話を聞いた限りでは、やはり皆仕事は繁忙・閑散の波が激しく、プライベートは少なからずその波の犠牲にならざるを得ない。休暇をとり、旅行を計画していても、すべてキャンセルせざるを得ない場合もあるし、皆それをある程度覚悟している。
しかしながら(あるいは「だからこそ」)、皆それぞれに、余裕があるときには少しでもプライベートを充実させようと努力している。特に家族のいるスタッフは、子供との時間をできるだけとるように腐心しているし、デスクの周りは子供の写真や子供がかいた絵で埋め尽くされている。
一部の投資銀行に見られるような、離婚・再婚の止め処ないサイクルではなく、家族を大切にしようという空気がみられる。
こんなところだろうか。
今のところ、まだ倒れてしまうほどの仕事量ではないし、こうした書き物をする多少の余裕もあるが、これからどれだけ忙しくなるのか、どれだけ知的・肉体的にタフになるのか、ちょっと想像がつかない。
余裕が見つけられれば、また少しずつ、気づいたことをノート代わりにまとめていきたい。
アップデートがなければ、仕事に埋もれていると思ってください。
そして私もこの日は朝から大忙し。
SloanGearの卒業式向け売り出しのためである。
自分を含めて10人いるメンバーのほとんどはインターンや旅行でボストンを離れており、残っているのはサッカーの練習で足の靭帯を切ってしまったメキシコ人のR君だけ。他のメンバーの友人や、私の友人J君などにヘルプに入ってもらって、なんとか準備を整える。特に大量に仕入れた商品を、私の寮の地下倉庫からセールスの会場まで運ぶのが一苦労。我が家のステーションワゴンの後部座席を倒して荷物を積み込んだが、それでも2往復しなければならないボリュームであった。帰りはこれが減っていてくれることを祈るばかりだ。
卒業式は全校合同で行われるものの、その後のパーティーはスクールなどに分かれて学校のあちらこちらで開かれる。スローンは、いつもC-Functionを行うWalker Memorialの裏にある芝生の広場にテントを張って、立食形式で食事と飲み物が振舞われた。我々は、そのテントの一角に場所を借りて、この日のためにデザイン・仕入れをしたスローン・グッズを売る。Tシャツ、パーカーなどの定番アパレルのほか、写真立てやマグカップなどの小物、さらにはMITのマスコットであるビーバーのぬいぐるみなど、品目数は40ほどにのぼる。価格を覚えるだけでも大変だが、アパレルはサイズや色の展開もあり、「素人」にはなかなか手に負えない。そして、大変ありがたいことだが、そうしたこちらの事情とは無関係に、13時ごろから卒業生とその家族、つまり我々のお客さんが、どんどん店にきてくれた。最初はぱらぱらであったが、そのうちそれが洪水のようになり、売り場は大混乱。金銭事故を防ぐために会計はメキシコ人のR君に任せる、などのオペレーションを決めていたが、それどころではなくなってくる。今思えば明らかにオペレーション上の準備不足であるが、何がどれだけ売れたか、捕捉できなくなっていった。娘二人を連れて、妻も応援に来てくれたが、マスコットとして期待された我が娘も、あまりの人ごみに完全に引いてしまい、かわいそうであった。嵐のような3時間があっという間に過ぎて、4時ごろ、パーティーの終了とともにセールスも終了。この間、飲まず食わず、トイレも行けず、立ちっぱなしの動きっぱなしである。パーティーの残り物のサンドウィッチとコーラで一息ついたが、セールスとは体力勝負である、というのを痛感した。
さらに、この日の営業はこれで終わりではない。
場所をスローンの前の広場に移して、今度は夕方18時から、OB向けのパーティーが開かれる。約400人ほどの卒業生が招待されているとかで、我々も学校サイドから出店を求められていた。
サイズや色が不ぞろいになってしまった商品を箱に積め直し、車でまたピストン輸送をして、次の営業の準備。
あっという間に18時になり、営業開始。
昼の営業は、「これが最後の機会」という学生側のある種の強迫観念と、「両親」という財源を得て、皆財布の紐がかなり緩かったが、夜のパーティーはそれほどでもなく、ひやかしは時々来るものの、思ったほど売れず、従って忙しくもない。途中から、日本人同級生のYU君も助っ人に来てくれたのだが、多少手持ち無沙汰で逆に申し訳ないほどだった。
ところが、この日のボストンは例外的に気温が低く、夜になってさらに冷え込みが強まると、何か上に着るものを求めて、客足が増えていった。生憎Tシャツなどはなかなか売れなかったが、単価の高いトレーナー、パーカー類がとぶように売れ、売上に貢献してくれた。
また、明くる土曜日もスローンのOB向けのイベントがあり、これに向けても営業を要請される。
これは校舎内での販売であり、空調のきいたところで快適に仕事が出来ること、また「売りっぱなし」の前日の経験から陳列やその他のオペレーションが改善されていたことなどから、スムーズな営業ができた。
前日とはうってかわって、この日は30℃を越える猛暑。
Tシャツや帽子、サンバイザーが良く売れた。
特に今回新作したヴィンテージ風(古着風)のTシャツは、アンティークなデザインと生地の風合いがうけて、完売となった。
2日の営業で、売上は総額7千ドルほど。
多くの人の助けを得て、一年でも有数の「特需」を、例年並みの営業成績で終えることができた。
いやー、疲れた疲れた。
5月31日、ウンブリアから一気に南下し、丸一日がかりでナポリの南、ソレント半島を目指す。
以前にも書いたが、イタリアの高速道路網はまさに「すべての道はローマに通ず」で、ローマから各地に血管のようにのびている。この日の移動も、アッシジからペルージャを経由してローマに向かい、そこからローマ市外を迂回する外環状線を抜けて、ローマとナポリを結ぶ路線へと入っていく。
ナポリに向かう路線に入ると、中部・北部の路線とは趣が変わる。道路の幅員が広がり、行き交う車の平均速度はさらに上がり、サービスエリアの間隔が広がる。山々の稜線も高くなり、また違う地方に来たと実感させられる。
ナポリの南、港町ソレルノで高速道路を降りると、そこからはソレント半島南岸の崖道を這うように走る。ナポリ湾の南辺を20kmほど地中海に迫り出したソレント半島は、標高数百mの急峻が屏風のように続き、海岸線にも平地をほとんどもたない。それがかつてローマ帝国の皇帝も愛した景観を創り出し、またローマ帝国滅亡後も栄えた海洋国家を成立せしめたのだろうが、炎天下を子供を乗せてホテルに向かうドライバーには酷な地理である。ソレント半島南岸の中心であり、我々が宿をとっているアマルフィの町まで、ソレルノからおよそ15kmほどの距離だが、到着には1時間ほどを要した。
そうして苦労して到着したアマルフィは、急峻と青い海、淡い色の街並みの組み合わせが美しい町。掃き溜めのようなささやかな平地に重なり合うように立ち並ぶ建物。街中に入ると、土産物屋と観光客が犇めき合い、想像以上に大衆的で(旅の初めのころに訪れたリビエラの街の方が随分と上品で歩きやすい)、あまり美しいとはいえないが、海辺から眺めると、独特の旅情をかきたてられる。
申し訳程度に砂を集めたビーチには、街並みと同じようにびっしりと海水浴客のパラソルが並ぶ。ちょっと密度が高すぎて、優雅なリゾート、という感じにはいかないが、街並みの一部と思って眺めれば、それなりに美しい。
街の東端、ビーチを見下ろす海岸沿いに宿をとった。テラスでとる朝食が素晴らしい。
ソレント
この地域を周るのなら海路が良い、というガイドブックやホテルスタッフの勧めに従い、フェリーで海岸線の景観を楽しみながら、周辺の町を巡る。まずは途中、ポジターノという街を経由し、ソレントに向かう(下の写真はポジターノ)。
ソレント。半島の名前にもなっている、この地域最大の街である。
海辺に這い蹲るようなアマルフィとは異なり、ソレントの街は崖の上に開けた台状の平地に広がる。
ある程度空間的な広さがあるためか、歩きやすく、ウィンドウショッピングも楽しい。
イタリアはほとんどの観光地で、観光用の馬車を見かけるが、このソレントも例外ではない。これを見かけるたびに、長女の機嫌が良くなるので、いつも助かる。
確か去年、私が所属していたコンサルティング会社の世界のパートナーが集まる会議が、ここソレントで行われたはずである。よくもまあ、こんな遠いところでやったものだ、と思う。
カプリ/青の洞窟
この地域に来て外せない観光の目玉である。
団体旅行でも、必ず組み込まれている。
ソレント半島の数km先に浮かぶカプリ島には、ソレントから高速船で渡るのが最もメジャーだが、宿泊しているアマルフィからも船が出ている。満員の船で、その小島に向かう。
ソレント半島と同じく、周囲のほとんどを崖に囲まれたカプリ島は、商船が着岸できる港が一つだけある。
生憎の天候で、空はどんよりと曇っている。このあたりの海は時化ることが多く、時化たり、時化で干潮を逃したりすると、青の洞窟には入れない。そのため、多くの団体旅行がこの洞窟の目指す一方で、断念して帰らざるを得ない人々も多い。私も10年ほど前に来たときには、波が高く洞窟観光は諦めざるを得なかった。この日はどうか、と不安になったが、港から洞窟まで行く船はなんとか出航した。波に飲まれそうな小船に、難民のように観光客が犇めき合って、島の周囲を回る。
島を回ること40分ほどで、やっと洞窟の入り口に到着。
ただ、ここからが凄い。
洞窟の入り口は、海面からの高さが1mにも満たない小穴であるため、3-4人乗りの手漕ぎボートに乗り換えなくてはならない。しかしながら洞窟のスペースと、それに伴うボートの数に限りがある。一方で、洞窟に入りたい観光客を乗せた船は次々と到着する。バスやタクシーで陸路やってくる人もいる。要するに、手漕ぎボートに乗り換えるまでの順番待ちが発生する。
そして、これが長い。30分以上は待たなければならない。その間、エンジンを切った船でぷかぷかと波に揺られ続ける。我々を含め、船酔いで乗客の顔色がどんどん悪くなっていく。
やっとまわってきたボートには、家族4人で乗り込むことができた。さっさと見て帰りたいところだが、ボートはまず「入場券売り場(これもボート)」に向かい、ここで一人10ユーロの入場料を払わされる。ボートに座って延々とチケットを売っているオヤジたちは、よく船酔いしないものだ。
そこからいよいよ小穴をくぐって洞窟に侵入!
どんな魅惑的な世界が広がっているかと思いきや、闇の中に手漕ぎボートが遭難者のように集まっており、不気味である。
確かに洞窟の外から海中を通じて差し込む太陽光が、洞窟の海水を底から青く照らして、神秘的な色合いを見せているが、窮屈なボートの中で、娘は怖がって泣き始めるし、まったくロマンチックでもなんでもない。なんとか船頭に家族写真を撮ってもらったが、真っ暗で何だかわからない。子連れでの訪問を考えている方には、是非やめたほうがいいと助言したい。
島に戻ると、昼食を兼ねて休憩し、船酔いをおさめる。
その後、ケーブルカーで崖の上にのぼる。「カプリ」と言う名の町は、崖の上に広がっている。各界著名人の別荘が点在する島だけあって、高級ブランドの店が並ぶ。ただ、ここも、北イタリアの街に比べると、多少バブルな、下品な金持ちの雰囲気がして、あまり好感をもてない。
展望テラスから港を眺めていると、見ず知らずの観光客から、娘がかわいいので一緒に写真を撮って良いか、とリクエストされる。こういうことはこの旅の間何度かあった。親バカ的には、嬉しい限りである。
夜は古い砦の跡を改装したレストランで、街並みの夜景を見ながらディナー。
味もサービスもしっかりした、良い店であった。
これからあの恐るべき低サービス品質の国に戻るのかと思うと、ぞっとした。
明朝ローマに向かい、当地で一泊して、ボストンに帰る。2週間のイタリア旅行も、もう終わろうとしている。
MBAの2年間は、みなあちこちに旅行にいくものだが、家族そろってこれだけまとまった旅行が出来る機会というのはそうあるものではない。次女はもちろん、長女が将来どれだけこの旅行のことを覚えているかは期待できないところだが、我々夫婦には、家族のふれあいを含め、大きな思い出になったと思う。
また、散々カネを使ってしまったという経済的な意味も含めて、来週から始まるサマーインターンの良い動機付けにもなった。
ボストンに帰ったら、また頑張ります。
2週間のイタリア旅行も半ばを過ぎ、ウンブリア州に入る。
観光の目玉は世界遺産の街、アッシジ。聖フランチェスコの出身地であるため、米国サンフランシスコの姉妹都市にもなっているが、当然街並みはサンフランシスコとはまったく関係なく、丘の上に累々と築き上げられた城壁都市の傑作である。1997年の大地震でほとんど崩壊したものを、イタリア人が誇りと執念で崩壊前とほぼ同じ状態に再建したという。お陰で見事な街並みが今でも見られるわけだが、もともとレンガではなく石積みが多い壁のところどころは、新しいレンガや石、漆喰で固められていて、地震の傷跡を感じさせる。
町の中心部の路地を入ったところにひっそりと立つプチホテルが、この地方に滞在する間の宿。小奇麗に管理されたホテルの小さなテラスからは、ウンブリアの農村風景が見渡せる。
町の端の崖に立つ聖フランチェスコ聖堂は、町の外から見上げるとチベット寺院をすら思わせる威容であるが、町の中から見ると、色合いとデザインが極めて優しく、つつましい印象を受ける。
アッシジのほかに、かつて中田英寿が活躍した州都ペルージャ、ワインとオリーブオイルの町モンテ・ファルコなどを訪ねる。いずれも魅力的な景観で楽しませてくれるが、みな丘の上にあるため、妻と2台のベビーカーを押して歩く身にはなかなかきつい。
そうして腹が減るせいもあるのかもしれないが、この地方で味わう山の幸は格別に旨い。
代表格は、トフュフやポルチーニなどのキノコ類。
これに子牛や、鳩などのジビエ。
ウドンのような独特の太麺パスタ。
そして赤ワインとオリーブオイルである。
やはり3度の食事が旨いのは、楽しいたびに欠かせない要素である。
MITスローン校でのMBA、プライベート・エクイティでのインターン、アパレル会社SloanGearの経営、そして米国での生活から、何を感じ、何を学ぶのかー。
ご意見、ご感想は↓まで
sloangear★gmail.com
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