私たちの住む家族向け学生寮Westgateは、高層棟と低層棟にわかれ、後者は子持ちの家庭向けに2LDKサイズのアパートになっている。これら低層棟は3階建で、各フロア2世帯、計6世帯が、一つの出入り口と階段を共有している(この一群をEntrywayと呼んでいる)。我々のEntrywayは、韓国人家族が2世帯と、中国人家族、パキスタン人家族、米国人家族がそれぞれ1世帯である。この6世帯が今夜初めて自主的に集まり、住環境の改善を求めて団体行動をとっていくことを約した。
事の経緯は以下のとおりである。
我々のアパートの外壁の内部素材には、ポリ塩化ビフェニル(PCB)が含まれているらしい。
発がん性のある有害物質である。
これを処理するための工事が、昨年11月中旬から行われた。
外壁内部にあるPCBまでの穴を確保するためにレンガをいくつか取り除き、そこに処理剤(アルカリ剤か何か)を注入してPCBを分解、処理後またレンガを戻す、という作業である。低層棟の端にある我々のEntrywayから工事を始め、11あるEntrywayに順に施工していく、という計画であった。11月初めのMIT Housingから住民への説明では、
- 1つのEntrywayあたりの作業は1ヶ月未満であること
- 騒音は最初にレンガを取り除くときだけでのごく短期間で限定的なものであること
- PCBの拡散その他による住民の健康への影響の懸念はないこと
- 従って住人が住んだ状態のまま工事を行うこと
が告げられた。
が、我々のEntrywayの工事が11月15日に開始され、蓋をあけてみると、
- 工期は6週間に延び、工事が終わったのはクリスマス後。その間、アパートは外からすっぽりビニールシートで覆われ、外を見ることも窓を開けることもできず
- レンガを取り除く工事は2週間ほどに及び、その間の騒音は室内で会話ができないほど。その理由は「レンガが思ったよりも深かった」という極めてお粗末なもの(工期が延びたのも主にその理由)
- レンガ除去後に内部素材から異臭が拡散し、頭痛などの症状が発生
- 工事関係者による駐車場占拠、禁煙区域での喫煙、果ては雪の日に雪球を作ってアパートにぶつけてくる、などの数々の悪行
と、とても人並みの暮らしができる環境ではなかった。
各家庭とも子供がいて、我が家は工事真っ最中の12月初めに赤ん坊が生まれている。
工事期間中、各住民がぞれぞれに苦情を訴えていたが、最後まで環境の抜本的な改善はされず、一方で工事が終わってみると、
「最初のEntrywayでの経験から、我々は工事が想定より困難であることを学んだ。他のEntrywayの工事は一旦延期し、同様の工事をするかどうかは2月中に判断して発表する」
という発表がMIT Housingからなされた。
そして我々のEntrywayの住民には、"Special Dinner"を提供する用意がある、と。
私はこれまで何度か施設管理のマネジャーなどの下級責任者に苦情のメールを入れ、しばしば同じEntrywayの他の住人にもそのメールの写しをいれるなどしてきた。うち何度かは、1-2の家族が同調して、一緒にかけ合ったりもしてきた。
そして遂に"special dinner"の情報を得たとき、頭に来たので、
「こんなものは受け入れられない。我々はせめて工事期間中の家賃の返還を求める権利があるはずだ。Entrywayとしてその主張をまとめる必要があるのであれば、喜んでサポートする」
という内容のメールを、他の世帯に宛てて送った。
これに、階下に住む米国人家族が反応、
「Shintaroの気持ちは良くわかる。皆彼の意見に賛成ならば、21日の夜に我が家に皆で集まって、今後の動き方を話し合わないか」
というメールを流してくれた。
そして今日のミーティング、となったわけである。
ミーティングは短時間で終わり、全員が工事期間中の住環境について人間的なレベルであると思っていないこと、家賃の返還を求めたいこと、そのために大学当局における寮関係の部署の総責任者に連名の手紙を一通と、各家庭からの個別の手紙を一通ずつしたため、一週間後に提出すること、が合意された。
今回の「団結」は、私にとっていくつかの意味をもっていた。
一つは隣人との関係の深化。これまで顔を合わせればもちろん挨拶くらいする関係であったが、時間をとって集まったのはこれが初めて。今後は付き合い方も変化するだろう。
もう一つは米国社会における訴訟、権利闘争の経験。やはりこの国は、自分の立場や意見を主張しなければいけない国であるし、主張したものに対して強烈にリアクションがある国である。これまで諸々の苦情を訴えたりしてきたが、ほとんど相手にされていない。今回こうした団体行動をとり、かつネイティブの家族を巻き込むことで、この国でどうやって意見を通していけばよいかが、少し面白い視点で見えてくるかもしれない。
今後の展開に期待したい。
この機を逃すまじ、と、生後1ヵ月半の幼子を連れて、4泊5日の旅程でPuerto Ricoに向かった。
ボストンから直行便で4時間と手頃な時間距離であること、米国自治領で渡航にパスポートやビザが必要でないこと(結果的には間に合ったが、1月ではまだ次女のパスポートが出来ていないリスクがあった)、そして何より暖かい南の島であることが、目的地選択の決め手となった。
特に何をしたというわけでもないが、家族4人ゆっくりくつろげた、良い旅行であった(独身、ないし子なしの頃とは、旅行のスタイルは大きく変わるものだと痛感)。
移動
出発した1月14日(月)、ボストンを未明から大雪が襲った。数日前から警報が出ていたので覚悟はしていたが、早朝5時に起床してみると、やはり結構降っている。インターネットで飛行機の運行情報をチェックすると、ボストンのLogan空港発着の便は次々に欠航が決まっている。我々が利用予定であった航空会社も、9割方の便が欠航になっていたが、我々の便はまだ大丈夫なようだった。
急いでタクシーで空港に向かい、チェックインを済ませる。まだ半信半疑であったが、結局飛行機は予定より1時間遅れで、無事離陸した。
ノーチェックであったが、長女が2歳になったので、この旅から航空機の利用にはチケットの購入が必要になった。それでも、この時期平日発着ならば、Puerto Ricoまでは往復一人280ドル。日本で東京-福岡を往復するよりも安い。むしろ家族で3列シートを占拠できたのは、いろいろと都合が良かった。
利用したJetBlue航空は、10年ほど前に出来た格安航空会社である。米国の格安航空会社の先駆けであるSouthwest航空を模倣しながらも、機内設備を充実させるなどの差別化で成功し、2002年から2007年まで6年連続して米国国内線No.1の評価を得ている。私は今回初めて利用したが、確かに航空機の内装やスナック・飲み物、従業員のサービスなど、決して豪華ではないが、腐りきった他の米国航空会社は言うに及ばず、これまで乗ったどのエアラインと比べても、満足のいくレベルであった。
というわけで、快適な移動でした。
ホテルおよび周辺
Puerto Ricoのホテルは、首都San Juanとその周辺に集中しているが、周辺はCondadとIsla Verde(緑の島)という二つの地区に大別される。我々は後者のIsla VerdeにあるInterContinental Hotelに宿泊した。空港から車で5分程度、San Juanの旧市街までは同じく20分程度の距離にある。
海岸沿いにはリゾートマンションなども多く立ち並んでおり、実は砂浜に直結したホテルは多くないのだが、我々のホテルはプールを経て砂浜に直接出られるようになっていた。追加料金を払って海側で手配した部屋からは、カリブ海が一望できる。
一方、ホテル周辺は、米国資本が跋扈している。通りを見渡すと、ハンバーガー、フライドチキン、ドーナツ、アイスクリームなどのお馴染みのFCチェーンのネオンが無遠慮に並んでいる。
それでも、それらの間に潜むように、土地の人間が通うような店もあり、南国の植物などとともに若干の「異国情緒」は感じられる。
ともかく、海側ではなく陸側の部屋を取っていたら、5日間むさ苦しい景色と対面していたであろうことは、間違いなさそうだった。
旧市街(Old San Juan)
1521年のスペイン人の入植に始まる、島の首都である。もともとはSan Juan Bautistaが島の名前で、Puerto Rico(豊かな港)が街の名前であったが、18世紀頃までにひっくり返ってしまったらしい。
入り江を形成する小半島にスペイン風の街並みがぎゅっと詰め込まれている。外海に向かっては崖、内海に向かっては斜面が緩やかに海に落ち込んでいて、いかにも天然の良港である。
街路は碁盤の目にひかれているが、傾斜が複雑に絡み合い、立体的な街並みを形作っている。パステルカラーの建物はいずれも古い作りだが綺麗に塗装されている。ほとんどの家屋が奥にパティオ(中庭)をもっているあたりも、スペイン風な感じがする。
ところどころ、空家が売りに出されている。駐車場のない街の沿道は、びっしりと路上駐車で埋められている。街の外には、高層マンションが並ぶ。やはり、情緒のある美しい街は、住みにくいのかもしれない。
保育園もパステルカラーである。かつて保育士をしていた妻の影響で、こういう施設には自然と目が行く。こんなところで育った子供はきっと、おおらかな明るい性格になりそうだ。
街並みに混じって、2-3箇所に教会が配置されている。
皆小ぶりでシンプルな作りだが、過剰装飾の大聖堂よりも、街に良くあっている。白壁が青い空に良く映えていた。
小半島の先端は、El Morro(モロ要塞)と呼ばれる要塞になっている。海賊の襲来に備えるため、かつては街全体が要塞化されていたそうだが、今ではこうした海沿いの一部に遺構が残されているに過ぎない。
外海に面してかつての城壁が続いているが、その外側にかつての貧民街や墓地が貼りついて、今ではどこが城壁か一部判然としないまでになっている。それでも、そんな無秩序さも、時間の力か、いまや景観としての一体感を醸している。
Bacardi Rum 本社工場
世界最大のラム酒メーカーであるBacardiの本社工場は、ここPuerto Ricoにある(商法上の本社は租税回避地のBermuda島らしい)。
Old San Juanから船で内海の対岸の町に渡り、車で5分ほど走ると、広大な敷地の工場が見えてくる。
訪問すれば、無料でガイドツアーに参加できる。
Bacardi Rumで作ったカクテルも振舞われる(一人二杯まで)。
明治維新の少し前にキューバで創業されたBacardi社は、いまや年間2億本以上のボトルを世界約200カ国に出荷している、世界でも5本の指に入るスピリッツメーカーである。創業の地はカリブ海をもう少し西に行ったキューバである。19世紀の終わりに米西戦争で敗れたスペインがキューバを「解放(実質的には米国への支配権の委譲)」した際には、キューバを象徴するBacardiのRumと米国を象徴するコーラを混ぜたカクテルであるCuba Libre(キューバの自由)が作り出され、街中で飲まれたという。1960年代にキューバが共産化してからは島内にあるBacardiの資産はすべて国有化されたが、ここPuerto Ricoのほかにフロリダ、メキシコなどで生産を続け、今でもBacardi家所有の非公開企業として、伝統を受け継いでいる。
バーに掲げられたBacardiのボトルを眺めながら、そんな歴史に思いをめぐらせる。
食事
プエルトリコ料理、というのが一応ある。
ほとんどはスペイン料理やポルトガル料理の類似品、亜種だが、オリジナル、とかろうじて言えるようなものもある。
代表的なものはAsapaoと呼ばれる雑炊と、Mofongoと呼ばれるバナナ料理。
特に後者は、青バナナを揚げてマッシュし、肉や魚介類などの具と調味料(塩、にんにくなど)を混ぜて団子状にし、ソースをかけたもので、あまりほかでみたことがない。
ソースを吸収した青バナナのマッシュはしっとりとして、食欲をそそる。塩漬けにされた肉とも良くあう。ビールが進む料理である。
滞在中はこのほかに、米系ファーストフードや中華料理などを食べていたが、最後の夜はホテルに併設された日本食レストランに行ってみた。Momoyamaと名づけられた店は、ガイドブックなどによると「地元でも評判の店」らしい。8月に日本を発ってから、家族で日本料理店を訪れるのは初めてである。しかも失礼ながら、Puerto Ricoである。あまり期待せずに入ってみたが、ある意味で面白い経験ができた。
まず入ると、日本語で「いらっしゃいませ」と声をかけられる。内装は赤が貴重になっており、店の真ん中に鳥居があったり、巨大な壺が置いてあったりする。
鉄板焼きコーナーと寿司コーナーがあったので前者を選択すると、まさに鉄板の前に座らされる。
そして徐に現れた東洋人系のシェフ(明らかに日本人ではない)が、包丁で卵のカラを斬ったり、鉄板の上で肉を「炎上」させたり、上海雑技団ばりの曲芸を繰り広げて、料理を作っていく。居合わせた米国人家族の客は拍手喝采であった。
Beach & Pool
4泊5日の旅程のほぼ毎日、午前中と夕方は砂浜とプールにいた。
幼い子供を二人も連れてはあまりで歩けず、またそれほど各地に見所がある島でもないので、ビーチ・リゾートを楽しむことにした。
砂浜は真っ白ではなかったがそれなりに綺麗で、それほど人ごみもなく、快適だった。
リゾートマンションやホテルが、街と砂浜を隔てている。
長女は砂浜を嫌がった。足が汚れる、という。自分が2歳くらいのころもそんな反応をしたと両親から聞かされていたので、苦笑する。波打ち際の、水分で砂が固まったあたりでは、何とか一人で歩いていたが、波打つ海に入ってくほどの度胸はなかった。何度か興味に負けて海に近づきはしたが、たまに大きい波が来て身体に叩きつけられると、そのたびに泣いて退散していた。
結局、砂浜に彼女の大好きなアンパンマンの絵を描くのが関の山であった。
そうした間、次女はビーチベッドに敷いたタオルの上で、風にそよがれていた。まあ、間違いなく何も覚えていないだろう。
海や砂浜を嫌がった長女も、プールにはある程度積極的な姿勢をみせた。欧米人はプールといってもプールサイドで寝そべって日光を浴びるのが主目的なので、水の中にはほとんど誰もいない。身体を支えながら水泳の真似事をさせると、かなり喜んでいた。
一日の最高気温が27度ほどで、水温も若干低いので、プールと、すぐ横に設置されたジャグジーとに交互に入りながら過ごす。
水に入っている以外は、プールサイドで本を読んだり、寝転がったりと、骨休めに徹した。
かつてベトナムのリゾートに行った際は、食あたりで高熱を出してベッドから動けなかったが、今回は十分に満喫できた。4泊5日という期間もちょうどよかった。性格上、流石にあと2-3日いたら、飽きていただろう。
カリブ海の島の、平和な休日であった。
生後5週間の次女が初めて高熱を発した。
深夜、様子がおかしいと感じた妻が熱を測ると、体温は39度を越えていた。
MIT Medicalの救急に電話をすると、人肌より少し冷たいくらいの水に入れて身体を冷やし、万能風邪薬と信じられているTylenolを飲んで、薄着をさせて様子をみろ、とのこと。いきなり水にぶち込むというのは何とも乱暴な気がしたが、かといって対案があるわけでもなく、言われたとおりにする。1時間後くらいに再度測ってみると、熱は38度弱まで下がっていた。MIT Medicalに報告すると、ではそのまま様子をみなさい、厚着をさせないように、ということだったので、言われたとおりにして就寝する。
ところが朝、起床して次女の体温を測りなおすと、また熱が上がっていた。
やはり水風呂荒療治ではその場しのぎの解決にしかならなかったのか…。
そう思っていると、MIT Medicalから電話がかかってきた。救急対応の医師ではなく、小児科の医師(看護婦?)からであった。救急に話した内容は既に伝わっていて、今朝の体温を伝えると、ボストンのChildren's Hospitalに急患として連れて行け、という。何でも、感染症の恐れがあるが、乳幼児の感染症を検査する設備がMIT Medicalにはないらしい。
感染症、などといわれると、菌が子供の身体を蝕み、脳機能などを侵食して取り返しのつかないことになるのでは、とろくでもない想像をしてしまう。すぐに着替えてジュースを一杯だけ飲み、未明から降る雨の中を、次女だけを乗せて車を病院まで走らせた。
10分ほどで病院に着くと、救急外来を訪れ、事情を話す。
自宅に電話してきたMIT Medicalの医師は「Children's Hospitalには自分から事情を伝えておくから」と言っていたが、どうも何の連絡も着ていない様子。もっとも、こうした連絡不行き届きにはこの国に来てから慣れてしまっており、驚きもしない。とにかく、早く診てくれとだけ主張する。
看護婦に検査室に通され、事情を説明し、体温、脈拍などを計測されて、別の部屋に移される。
また別の看護婦が現れ、事情を訊くので説明すると、「一分待って」と言って去っていく。
今度は事務記録係を名乗る女性が現れ、昨夜からの経緯や自分たちの住所、生年月日、保険情報などを細かく聞いて、パソコンに打ち込んで去っていく。
さらに別の事務記録係が来たので、今オマエの同僚に伝えたぞ、というと、そそくさと退散。
そしてさらに別の看護婦が現れ、"So, what made you to visit us today?"と訊いてきたので、
「貴様ら、普段しゃべってばっかりいるくせに、肝心な患者の情報は共有せんのか?情報をパソコンに打ち込むことが目的になってしまってて、誰も見てないのと違うか。今日この病院に来てからその質問をしてきたのは貴様で5人目やぞ、その間約30分、何の診察も治療もしてもらってないやないか!」
と喚くと、看護婦はたじろぎ、以降私の呼び方が"You guys"から"Sir"に変わった。
看護婦は、感染症の恐れがある場合の定型の検査として、血液検査2種類と尿検査を行うことを説明。
まずは検尿をしたいが、彼女は尿が出るか、と訊いてきた。そんなこと言われても知らんよ、と思いながら、probably、と答えると、出ないかもしれないので、スポイトで抽出しますがいいですか、と訊く。じゃあ最初からそうしろよ、と思い、as you like、とだけ答えると、看護婦はスポイトを持ってきて次女に挿入し尿を採ろうとした。と、その瞬間、次女は噴水のようにオシッコをし、看護婦に浴びせかける。よしよし、もっとやれ、とほくそ笑んでしまった。
尿は十分すぎるほど採れたが、血液検査では苦労した。太りすぎなのか知らないが、血管が浮き出てこないので旨く採血できないらしい。看護婦は何度かトライして失敗すると、彼女は脱水症状気味で血圧もあまり高くないので、血管が浮き出てこず採血できる状態ではない、と、あたかも最初から知っていたように結論付け、これを飲ませて水分補給しなさい、と調合乳を持ってきた。
ミルクを与えると、凄い勢いで飲んだ。あっという間に2オンス(60グラム弱)入りのボトルを一本飲みきり、まだ欲しいと泣いている。廊下にいた別の看護婦に、同じものを追加で持ってきてくれ、というと、最初の看護婦に伝えておく、という。10mほど歩いたナースステーションにあるのだから、オマエが行けばいいだろうが、と思ったが、ちょっとガマンしてみる。
検査室の中で待っていると、係りの看護婦が歩いてくる音が聞こえる。先ほどミルクの追加を頼んだ看護婦が呼び止める。我々の要求を伝えるのかと思いきや、
「こないだのお店、どうだった?最高だったでしょう?」
「ありがとう、とっても素敵だったわ、彼も気に入ってくれて、最高だったわ」
「私の言ったデザート、食べてみた?」
「もちろん!ああ、あの味、言葉にできないわ・・・」
な、何の話をしとるんだ、コイツらは??
そして5分ほどおしゃべりをした挙句、
「そういえば、あなたの患者、何か欲しいって言ってたわよ」
思わず検査室の中から、
「ミルクや、ミルク!箱ごともって来い」
と叫んだ。
ミルクは飲んだが、看護婦は依然として血管を見つけられない。
「…1時間ほど待ちましょう」
と場当たり的な言葉を残して去っていく。
1時間後、やはり見つけられない。遂に、
「どうやら自分には無理なので、ドクターにやってもらいます」
ということになった。
そして、暫くしてドクターが現れると、まったく理由はわからなかったが、自分が採血するためには別の部屋に移す必要があります、と告げて、娘を連れて行こうとする。どのくらい時間がかかるのか、と訊いたら、20分、ということだった。何でもすぐに1分とか1秒とかいう国なので、20分と言われると逆に信憑性を感じたが、結果的には1時間しても帰ってこない。心配になって娘を探しに行くと、別の看護婦が連れて行ってくれた部屋で、娘は放置されていた。抱きかかえて、ナースステーションに行き、係りの看護婦に事情を尋ねる。すると、ドクターでもやはり採血できなかったので、今採血のエキスパートを呼んでいる、ということだった。
このころには、呆れてモノがいえない状態に陥っていた。
最初の検査室に娘を連れて戻り、待つうちに二人とも寝てしまった。
どのくらい時間が経っただろうか、「エキスパート」が現れた。
部屋の明かりを調節し、最初に腕で採血を試み、次に足でやってみて、巧くいかないと最後はコメカミのあたりで採血して、見事に規定量の血液を採取して、去っていった。
やはり企業社会と同じで、米国はどこでも、ほんの一握りの超優秀な人間と、あまりにもたくさんの信じられないくらい「使えない」人々が共存するのだと、改めて思い知らされた。
それからさらに待つこと2時間、病院に着いたときは10時になっていなかった時計の表示が17時近くになろうとする頃、看護婦が現れた。
曰く、今のところは検査の結果に問題はないが、検体を48時間培養してみないと、はっきりしたことは言えない、今日のところは一番緩く一般的な抗生物質を注射するので、それで帰ってあとは様子を見てほしい、とのこと。48時間以内に、検体から感染症の菌が発見されたら、その時点ですぐに連絡するので、入院の準備をしておいて欲しい、ということだった。
注射をうってもらい、身支度を始める。
窓のないJRの「日勤部屋」のような部屋で、丸一日閉じ込められた疲労が、どっと押し寄せてくる。
と、本日初登場の若い看護婦が現れて、最後に体温と脈拍だけ測る、という。
計測された体温は、37.2度。
顔色も良い。
何だか良くわからんが、回復したようであった。
釈然としない思いが残ったが、まあ体調が良くなったなら結果オーライである。また余計な菌を院内感染でもらわないうちに、そそくさと帰った。
米国人の怠惰さ、非効率さと格闘した一日であったが、考えてみると次女の出産以来、二人で長時間を過ごした最初の機会であった。
ほぼ一日中抱っこをしていた腕はだるくなっていたが、次女との親子の繋がり、何より自分のこの子に対する親としての自覚は、昨日よりも深まったように思う。
子供が病気にならないと親の自覚が深まらないというのはそもそも問題があるが、もっと自分を大切にしろ、という子供から私へのメッセージだったと思い、今日の気持ちを忘れないようにしたい。
最後に、当然ながら、Children's Hospital Bostonはオススメしません。
かつてのクライアントから、夕食に誘っていただいた。
ボストンの本社で研修があり、東京から5日間くらいの予定で来米されているとのことで、最終日の今日、寿司でも食べましょう、とお声かけいただいた。
コンサルタントをやっていて良かったと思う瞬間はいくつかあるが、こうした食事にお誘いいただき、かつてのプロジェクトの後日談を伺ったり、最近の業界の様子について話し合ったりするのは、そうした瞬間の一つであり、この上なく光栄に感じる瞬間である。
そもそもこの仕事、多大なフィーを頂戴しつつ、そのフィーを支払ってくれたクライアントに、相手の気に障ることを言うという、なかなか無茶な仕事である。それがさらに、プロジェクト、つまり契約期間が終わって随分と経ってから、わざわざ時間と費用を割いて食事をご馳走していただけるというのだから、普通に考えるとあり得ない。かろうじて、学校の先生や医師ならこれに近い状況もありえるかもしれないが、決定的に違うのは、この仕事の場合クライアントの方が往々にして年長者で、かつその業界の経験・知識は上、という点である。この日お会いしたクライアントも、私より一回り以上年長の、経験豊かなビジネスマンである。こういうお誘いをいただくと未だに、この方のこの瞬間の時間とカネの支出に見合う何かを自分は今日提供できるのだろうかと、喜びの反面不安に近い恐縮した気持ちになる。
この日も、そんな思いを反芻しながら、またこの方をクライアントとして従事したプロジェクトの到達と反省を思い起こし、今その会社(クライアントはプライベート・エクイティ・ファームで、プロジェクトの直接的な対象は彼らが投資した事業会社)がどうなっているか、自分がクライアントであったなら何をしているか、今後の必要なアクションは何か、などを考えながら、ボストンにある待合せのホテルまで、自宅から40分ほどの道のりを歩いていった。
東海岸に数店舗展開する有名な寿司屋で刺身などをツマミながら、いろいろとお話を伺う。当然ながら、自分たちがこちらで過ごしている間に、日本でかつて身を置いていた「現実」が着々と動いていることを思い知らされる。アルコールも加わり、時間と空間が錯綜する。多少、自分はこんなところで何をしているのだろう、とも思う。が、それ以上に、こうした方々に仕事をいただき、直接・間接に多くの支援をいただいたからこそ、今米国に家族で滞在し勉強できているのだと、本当にありがたく感じる。
3時間ほどがあっという間に過ぎ、席を立つ。奥様に、と、テイクアウトの寿司折まで持たせていただいた。
素晴らしい人たちに恵まれ、私は本当に運が良い、と思った。
ニューハンプシャー州の予備選が行われた。
3日のアイオワ州、5日のワイオミング州に続く3戦目である(アイオワとワイオミングは党員集会、ニューハンプシャーは予備選なので、予備選としては最初になるが)。
民主党はアイオワ勝利の勢いにのるObama氏をClinton氏が得票率3%の接戦で制し、初勝利。
共和党はMcCain氏がRomney氏を同じく5%差で破って初勝利を上げた。
"Chuck Norris Approved"のHuckabee氏は11%の得票にとどまり、ニューハンプシャー州民の「良識」を感じさせたが、それにしても我らがRomney氏は今回も二位止まりと、ワイオミング州での勝利にも関わらず、イマイチ決め手を欠いている。
Mitt Romney。
1947年生まれの60歳。
父親はミシガン州知事George Romney。
モルモン教徒。5人の子持ち。
ハーバード大学のビジネススクールとロースクールのジョイント・プログラムを、双方とも優等で修了。
卒業後、1978年にコンサルティング・ファームのBain & Companyに入社し、数年でパートナーに昇進。
1984年にはプライベート・エクイティ・ファンドのBain Capitalを仲間と設立し、共同経営者として散々儲ける(個人資産は200億円超ともいわれている)。
その後1990年には、当時経営危機に陥っていたBain & Companyに社長として戻り、1年で再建。
2002年のソルトレイクシティ冬季五輪の組織委員会会長を務め、同年からマサチューセッツ州の知事に就任、財政再建を実現・・・。
と、経歴の華々しさ、特にビジネス経験の豊かさは、他の有力候補を凌駕していると思われる。
が、そうした彼の経歴や話しぶりが、逆に一部の層の反感を強く買うらしい。
例えば、彼が共和党ディベイトなどで発言するときには、よく
「それについては、言いたいことが3つある。1つは・・・」
というような言い方をする。いかにも元コンサルタントらしい話し方で、個人的には喝采を送りたくなる。
他にも、ディベイトや演説の中でやたらと数字を出してきたり、パワーポイントのスライドを使って演説をしたりと、コンサルタントっぽいところは枚挙に暇がない。
マサチューセッツ州知事時代の実績ともあいまって、これが一部の有権者には強く支持される。
しかし、他方では、彼の学歴・経歴と言動を重ねて、エリート主義者だの、ガリ勉だの、偽善者だの、好き勝手に批判されている。
実際に勉強はガリガリやっていただろうし、ビジネスの世界ではエリートコースを歩んでいるので、必ずしも否定できないのだが、とにかくこの手の人物は、万人ウケしないようである。
そんなRomney氏、今後どこまで票を伸ばすことができるのだろうか。
何となく自分のキャリアを問われているような気すらして、目が離せない。
MITスローン校でのMBA、プライベート・エクイティでのインターン、アパレル会社SloanGearの経営、そして米国での生活から、何を感じ、何を学ぶのかー。
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