在る偏屈者による半年遅れのMBA留学日記、そして帰国後に思うこと
秋学期は、毎月1回は、月曜日が休日になる。
10月はColombus Day、11月はVeterans Dayで、いずれも第二月曜日。祝日のない9月も、Student Holidayとして22日が休みになっている。今年は金曜日に需要を入れていないので、月曜日が休みになると4連休である。
行楽の秋、じっとしている手はない。
というわけで、秋学期の家族旅行第一弾として、カナダ・ケベック州を車で回ってきた。
19日 Cambridge ⇒ Quebec City (約7時間+休憩)
20日 Quebec City ⇒ Tremblant (約4時間+休憩)
21日 Tremblant ⇒ Montreal (約2時間+休憩)
22日 Montreal ⇒ Cambridge (約5時間半+休憩)
という、総走行距離約1,000マイル(1,600km)の行程である。
初日は、高速道路をひたすら北上し、陸路国境を越えてセント・ローレンス川の南岸をさらに北上、ケベック・シティーに向かう。
沿線の景色は、期待したほどではなかった。米国内はまだ道も良く、途中州立公園を抜ける場所などがあり、目を楽しませてくれたが、カナダ領に入ってからは舗装が悪く、沿線の風景も貧相。地図でみるとセント・ローレンス川に沿って走っているようにみえる道も、実際に走ってみると川は全く見えない。ドイツのライン川沿いの道のような、川面と森に挟まれた道を想像していたので、正直がっかりした。
しかしケベック・シティーは、異国情緒たっぷりで、そんな落胆を十分に癒してくれた。北米には極めて珍しい(というか米国・カナダでは唯一の)城壁都市で、1608年設立というから、1630年に清教徒がボストンやケンブリッジの町を開いたのよりも古い。街並みもヨーロッパ風で、英国風のボストンとは明確に異なり、散歩が楽しい。
宿泊したのはLe Château Frontenacという古城ホテル。セント・ローレンス川、旧市街、河港を見下ろすロケーションにある超人気ホテルで、日本からのツアー旅行でも目玉として組み込まれていたりするらしい。5-6階建、半径50メートルほどの回廊型の建物と、その中央に15階ほどの高さの城館が配置されていて、とにかく巨大。ホテル内を案内するツアーは50分を要するという。お値段も子連れで泊まれる部屋となると一室500ドルを軽く超えたが、従業員のサービスも良く、満足。
二日目はセント・ローレンス川の北岸を南西に進み、モントリオールの北郊をかすめつつ、北に折れてスキーと紅葉の名所ローレンシャン高原に向かう。高原の最も奥(つまり北)にあるTremblantは、日本で西武グループが開発した苗場のような、地場の大手デベロッパーが開発したリゾート地。しかし、当地の休暇の過ごし方の違いも影響しているのだろうが、日本のスキーリゾートに比べると長期に滞在しても楽しめるように、工夫が凝らされている。
西武グループなどと異なり、デベロッパー自体は賃借モデルに特化していて、ホテルやレストランは皆テナントとして入っている。但しリゾート全体としての景観を損なわないように、ホテルなどの建物を含めた町全体のハコモノはデベが開発しているようで、自然に、かつ機能的にできている。地下に張り巡らされ各ホテルのロビーに直結している共同駐車場などは、デベのリーダーシップがなければ建設・管理できないだろう。また自然を活かしたアトラクションも豊富で、オフシーズンでもそれなりに遊べる。ホテルも、ウェスティン、ヒルトン、マリオットなどの有名ホテルチェーンが一通り入っていて、それらが競争することで良心的な価格とサービスが提供されている。我々が滞在したヒルトンの部屋(写真)はロフト式で、1階にはキッチン、ダイニングテーブル、ソファーなどが備え付けられ、ロフトにベッドが配置されていて、非常に広々としていた。これで朝食付きで一部屋175ドル。オフシーズンとはいえ、実にお得である。
三日目は山を降り、モントリオール市内へ。
モントリオールはカナダで二つしかない100万都市の一つで、万国博覧会、オリンピックも開催されたことのある「世界的大都市」である。しかし旧市街は古いフランス式の街並みを残し、どこか枯れたような印象を受ける。
宿泊したのは、その旧市街にあるSaint Sulpice Hotel Montrealというホテル。独立系のホテルで、インターネットで知って訪れたのだが、これが素晴らしかった。恐らくこれまで200近いホテルに泊まったと思うが、設備・サービス・値段のバランスにおいてその中でも(日本の旅館を除いて)トップ3に入るだろう。部屋はいずれも非常にゆったりと作られており、我々の部屋もベッドルームとリビングが分かれていた。内装やアメニティーにも細かい気遣いがみられ、過ごしやすい。従業員のサービスもプロフェッショナルながら温かみがあり、非常に気持ちが良い。モダンなレストランでのビュッフェ式朝食がついて一室200ドルちょっと。一人当たりの値段ではないかと疑ったほどである。
そしてこれはケベック・シティでもそうだったが、夕食は素晴らしかった。家族連れでも入れる、一人50~70ドルのレストランを利用したが、素材、味付けとも最高。米国の生活でこうしたものへの期待値が下がっているからかもしれないが、とにかく満足度が高かった。
最近はそうでもないらしいが、米国人はカナダ人を多少低く見るというか、小馬鹿にしたようなところがある。かつてコンサルティング・ファームの新人トレーニングで、同じチームになったテキサスのやんちゃ坊主がカナダ人チームメイトをからかって、危うく暴力沙汰になりかけたこともある。しかし、レストランやホテルなどのサービス業の質は、カナダ(ケベック、といったほうが正確か)の方が比較にならないほど高い。フランス文化の影響、という説明がそれなりにもっともらしく聞こえるが、それだけだろうか。これだけ地理的に近いのだから、米国も、少なくとも都市部だけでも良いから、こうしたサービス業の質に倣ってほしいと思うが、それは英国人にフランス人のようになれというような無理難題なのだろうか。
四日目、モントリオールを後にして南下、国境を越えてバーモント州に入ったが、昼食は選択の余地なくマクドナルド・・・。そのときの気持ちは、恐らくお察しいただけるだろう。
10月はColombus Day、11月はVeterans Dayで、いずれも第二月曜日。祝日のない9月も、Student Holidayとして22日が休みになっている。今年は金曜日に需要を入れていないので、月曜日が休みになると4連休である。
行楽の秋、じっとしている手はない。
というわけで、秋学期の家族旅行第一弾として、カナダ・ケベック州を車で回ってきた。
19日 Cambridge ⇒ Quebec City (約7時間+休憩)
20日 Quebec City ⇒ Tremblant (約4時間+休憩)
21日 Tremblant ⇒ Montreal (約2時間+休憩)
22日 Montreal ⇒ Cambridge (約5時間半+休憩)
という、総走行距離約1,000マイル(1,600km)の行程である。
初日は、高速道路をひたすら北上し、陸路国境を越えてセント・ローレンス川の南岸をさらに北上、ケベック・シティーに向かう。
沿線の景色は、期待したほどではなかった。米国内はまだ道も良く、途中州立公園を抜ける場所などがあり、目を楽しませてくれたが、カナダ領に入ってからは舗装が悪く、沿線の風景も貧相。地図でみるとセント・ローレンス川に沿って走っているようにみえる道も、実際に走ってみると川は全く見えない。ドイツのライン川沿いの道のような、川面と森に挟まれた道を想像していたので、正直がっかりした。
しかしケベック・シティーは、異国情緒たっぷりで、そんな落胆を十分に癒してくれた。北米には極めて珍しい(というか米国・カナダでは唯一の)城壁都市で、1608年設立というから、1630年に清教徒がボストンやケンブリッジの町を開いたのよりも古い。街並みもヨーロッパ風で、英国風のボストンとは明確に異なり、散歩が楽しい。
宿泊したのはLe Château Frontenacという古城ホテル。セント・ローレンス川、旧市街、河港を見下ろすロケーションにある超人気ホテルで、日本からのツアー旅行でも目玉として組み込まれていたりするらしい。5-6階建、半径50メートルほどの回廊型の建物と、その中央に15階ほどの高さの城館が配置されていて、とにかく巨大。ホテル内を案内するツアーは50分を要するという。お値段も子連れで泊まれる部屋となると一室500ドルを軽く超えたが、従業員のサービスも良く、満足。
二日目はセント・ローレンス川の北岸を南西に進み、モントリオールの北郊をかすめつつ、北に折れてスキーと紅葉の名所ローレンシャン高原に向かう。高原の最も奥(つまり北)にあるTremblantは、日本で西武グループが開発した苗場のような、地場の大手デベロッパーが開発したリゾート地。しかし、当地の休暇の過ごし方の違いも影響しているのだろうが、日本のスキーリゾートに比べると長期に滞在しても楽しめるように、工夫が凝らされている。
西武グループなどと異なり、デベロッパー自体は賃借モデルに特化していて、ホテルやレストランは皆テナントとして入っている。但しリゾート全体としての景観を損なわないように、ホテルなどの建物を含めた町全体のハコモノはデベが開発しているようで、自然に、かつ機能的にできている。地下に張り巡らされ各ホテルのロビーに直結している共同駐車場などは、デベのリーダーシップがなければ建設・管理できないだろう。また自然を活かしたアトラクションも豊富で、オフシーズンでもそれなりに遊べる。ホテルも、ウェスティン、ヒルトン、マリオットなどの有名ホテルチェーンが一通り入っていて、それらが競争することで良心的な価格とサービスが提供されている。我々が滞在したヒルトンの部屋(写真)はロフト式で、1階にはキッチン、ダイニングテーブル、ソファーなどが備え付けられ、ロフトにベッドが配置されていて、非常に広々としていた。これで朝食付きで一部屋175ドル。オフシーズンとはいえ、実にお得である。
三日目は山を降り、モントリオール市内へ。
モントリオールはカナダで二つしかない100万都市の一つで、万国博覧会、オリンピックも開催されたことのある「世界的大都市」である。しかし旧市街は古いフランス式の街並みを残し、どこか枯れたような印象を受ける。
宿泊したのは、その旧市街にあるSaint Sulpice Hotel Montrealというホテル。独立系のホテルで、インターネットで知って訪れたのだが、これが素晴らしかった。恐らくこれまで200近いホテルに泊まったと思うが、設備・サービス・値段のバランスにおいてその中でも(日本の旅館を除いて)トップ3に入るだろう。部屋はいずれも非常にゆったりと作られており、我々の部屋もベッドルームとリビングが分かれていた。内装やアメニティーにも細かい気遣いがみられ、過ごしやすい。従業員のサービスもプロフェッショナルながら温かみがあり、非常に気持ちが良い。モダンなレストランでのビュッフェ式朝食がついて一室200ドルちょっと。一人当たりの値段ではないかと疑ったほどである。
そしてこれはケベック・シティでもそうだったが、夕食は素晴らしかった。家族連れでも入れる、一人50~70ドルのレストランを利用したが、素材、味付けとも最高。米国の生活でこうしたものへの期待値が下がっているからかもしれないが、とにかく満足度が高かった。
最近はそうでもないらしいが、米国人はカナダ人を多少低く見るというか、小馬鹿にしたようなところがある。かつてコンサルティング・ファームの新人トレーニングで、同じチームになったテキサスのやんちゃ坊主がカナダ人チームメイトをからかって、危うく暴力沙汰になりかけたこともある。しかし、レストランやホテルなどのサービス業の質は、カナダ(ケベック、といったほうが正確か)の方が比較にならないほど高い。フランス文化の影響、という説明がそれなりにもっともらしく聞こえるが、それだけだろうか。これだけ地理的に近いのだから、米国も、少なくとも都市部だけでも良いから、こうしたサービス業の質に倣ってほしいと思うが、それは英国人にフランス人のようになれというような無理難題なのだろうか。
四日目、モントリオールを後にして南下、国境を越えてバーモント州に入ったが、昼食は選択の余地なくマクドナルド・・・。そのときの気持ちは、恐らくお察しいただけるだろう。
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今週はJapan Week、そして今日はJapan C-functionである。
昨年も多くの労力を投入し、めでたく盛り上がったJapan C-functionであるが、あれからもう1年も経ったのか、そしてこうして2年目のMBAも終わってゆくのか、と時の流れを感じてしまう。
Japan Week、といっても我々が勝手に名づけているだけなのだが、C-functionにむけた景気づけと、折角なので日本のことをもっと知ってもらおう、という趣旨で、毎日ランチタイムにイベントを開催したり、校舎のロビーでTシャツ、浴衣、雪駄、団扇などを販売したり、日本人は肌寒い中を浴衣や甚平でクラスに臨んだり、というようなことをやっている。
日本人同級生のKK君と企画・運営したランチタイムのイベントでは、ゲストによる特別講演と、ビデオ上映を、それぞれ二日ずつ開催した。どの程度人が集まるか不安ではあったが、皆の協力も得て4日で延べ150名ほどを動員。スローンの中での日本への関心喚起、という目的はある程度果たせたかもしれない。
ビデオ上映は、NHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX」の英語吹き替え版を放映。ホンダの北米進出の舞台裏と本田宗一郎の引き際を描いた「世界を驚かせた一台の車 名社長と闘った若手社員たち」と、創業間もないソニーのトランジスターラジオによる海外進出を描いた「町工場、世界へ翔ぶ」の2本で、タイや中国、インドなどのアジアからの留学生の関心を集めていた。
講演も、非常に興味深いゲストをお招きすることが出来た。
1回目は、大洋ファンドのCEOであるBrian K. Heywood氏。西海岸を拠点に日本の公開株に投資するアクティビストファンドのヘッドである。日本企業・日本経済の可能性について独自の視点で語っていただいた。
2回目は、ハーバード大学名誉教授のEzra F. Vogel氏。1979年の著書"Japan As Number One"で有名な、日本学・現代日本社会学の世界的権威である。著書が米国よりも日本で売れていることを反映してか、聴衆もスローン外から集まった方を含め日本人が大半であった。まとまった講演というよりも、氏と聴衆との対話、というかたちに近かったが、間近でお話を伺えたのは光栄であった。
そしてC-function。
900人を越えるゲストが集まり大混乱した昨年の教訓を踏まえ、今年は日本人同級生のAE君、YU君を中心に計画が立てられたが、「敵」もさるもので、「早く行かないと寿司にありつけないぞ」という噂が予想以上に広まって、開場予定の8時には、警察に怒られるほどの長蛇の列が出来上がり、9時頃には2,700貫の寿司は「全滅」、手配したビールも底をつき追加注文、会場は足の踏み場もない異様な混雑ぶりとなった。10人近い体制で寿司を小皿にとりわけ参加者に提供していく我々の分業と流れ作業を見た知り合いの1年生は、「やっぱり日本のオペレーションは凄い」と興奮していた。参加者のうち少なからぬ人数が、単なる寿司目当てであった可能性も否めないが、そうであったとしても、Japanを冠するイベントにこれだけの人数が集まり、そのうちのある程度の人の日本への関心が刺激されたなら、嬉しいことである。
そして昨年同様、ほぼ飲まず食わずで働き続けた我々日本人スタッフは、パーティー終了後はへとへと。ラテン系の同級生は、なんで日本人はいつもこんなに頑張るんだ、と不思議そうにしていた。まあ、それは我々もよくわからない民族性なのだが、片付けの後にチャイナタウンの日本料理屋に移動して乾杯したサッポロ・ビールが格別の味であったことだけ付け加えておく。
皆さん、お疲れ様でした。
昨年も多くの労力を投入し、めでたく盛り上がったJapan C-functionであるが、あれからもう1年も経ったのか、そしてこうして2年目のMBAも終わってゆくのか、と時の流れを感じてしまう。
Japan Week、といっても我々が勝手に名づけているだけなのだが、C-functionにむけた景気づけと、折角なので日本のことをもっと知ってもらおう、という趣旨で、毎日ランチタイムにイベントを開催したり、校舎のロビーでTシャツ、浴衣、雪駄、団扇などを販売したり、日本人は肌寒い中を浴衣や甚平でクラスに臨んだり、というようなことをやっている。
日本人同級生のKK君と企画・運営したランチタイムのイベントでは、ゲストによる特別講演と、ビデオ上映を、それぞれ二日ずつ開催した。どの程度人が集まるか不安ではあったが、皆の協力も得て4日で延べ150名ほどを動員。スローンの中での日本への関心喚起、という目的はある程度果たせたかもしれない。
ビデオ上映は、NHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX」の英語吹き替え版を放映。ホンダの北米進出の舞台裏と本田宗一郎の引き際を描いた「世界を驚かせた一台の車 名社長と闘った若手社員たち」と、創業間もないソニーのトランジスターラジオによる海外進出を描いた「町工場、世界へ翔ぶ」の2本で、タイや中国、インドなどのアジアからの留学生の関心を集めていた。
講演も、非常に興味深いゲストをお招きすることが出来た。
1回目は、大洋ファンドのCEOであるBrian K. Heywood氏。西海岸を拠点に日本の公開株に投資するアクティビストファンドのヘッドである。日本企業・日本経済の可能性について独自の視点で語っていただいた。
2回目は、ハーバード大学名誉教授のEzra F. Vogel氏。1979年の著書"Japan As Number One"で有名な、日本学・現代日本社会学の世界的権威である。著書が米国よりも日本で売れていることを反映してか、聴衆もスローン外から集まった方を含め日本人が大半であった。まとまった講演というよりも、氏と聴衆との対話、というかたちに近かったが、間近でお話を伺えたのは光栄であった。
そしてC-function。
900人を越えるゲストが集まり大混乱した昨年の教訓を踏まえ、今年は日本人同級生のAE君、YU君を中心に計画が立てられたが、「敵」もさるもので、「早く行かないと寿司にありつけないぞ」という噂が予想以上に広まって、開場予定の8時には、警察に怒られるほどの長蛇の列が出来上がり、9時頃には2,700貫の寿司は「全滅」、手配したビールも底をつき追加注文、会場は足の踏み場もない異様な混雑ぶりとなった。10人近い体制で寿司を小皿にとりわけ参加者に提供していく我々の分業と流れ作業を見た知り合いの1年生は、「やっぱり日本のオペレーションは凄い」と興奮していた。参加者のうち少なからぬ人数が、単なる寿司目当てであった可能性も否めないが、そうであったとしても、Japanを冠するイベントにこれだけの人数が集まり、そのうちのある程度の人の日本への関心が刺激されたなら、嬉しいことである。
そして昨年同様、ほぼ飲まず食わずで働き続けた我々日本人スタッフは、パーティー終了後はへとへと。ラテン系の同級生は、なんで日本人はいつもこんなに頑張るんだ、と不思議そうにしていた。まあ、それは我々もよくわからない民族性なのだが、片付けの後にチャイナタウンの日本料理屋に移動して乾杯したサッポロ・ビールが格別の味であったことだけ付け加えておく。
皆さん、お疲れ様でした。
この9月から、長女が公立のPreschoolに通い始めた。
こちらの幼児教育制度では、2歳9ヶ月からPreschoolに通い始め、その後kindergarten、小学校と進学していく。いわば米国教育課程の入り口に立ったわけである。
本来は月曜日から金曜日まで週5日の課程なのだが、市役所側のミスなど諸々事情があって、9月の間は週二回だけ保護者同伴で通うことになった。普段は妻が同伴するのだが、今日は私が同伴する機会を得た。
Cambridge市内の住宅地の中にある学校は、Preschoolから小学校までが併設された大きな建物で、その中の一室を充てられたPreschoolでは、14人の子供が、4人の保育士によってケアされている。公立で、その分授業料も比較的安いのだが、子供と保育士の人数比でみるケアの密度は日本の比較にならない。
14人の子供の人種・バックグラウンドは様々で、白人/黒人/黄色人種、英語系/スペイン語系/フランス語系/韓国語系、といろいろな子供がいる。
9時頃に教室に着くと、既にウチの長女以外の子供は全員そろっていて、お絵かき、ママゴトなど、皆めいめいに遊んでいた。長女も徐々にそこに入ってゆく。
10時頃になると、おもちゃを片付けて「ミーティング」。それぞれの子供の名前を書いた丸い座布団のようなものに座って、保育士さんの話を聞いたり、歌を歌ったり、「今日は何曜日?」といったクイズをしたりしつつ、外出の準備に移ってゆく。
そして10時半頃にはPreschoolを出て、徒歩15分(子供の足で)ほどのところにある公園へ。公園内での保育士の監督は極めてシンプル。子供たちの行動可能範囲を示し、ブランコは危ないから近寄らないように、という指示を出して、あとは時折子供たちの遊びに加わったりしながら、基本的に「放置」している。
30-40分で公園遊びを切り上げると、今度は近くの図書館へ。図書館職員の女性に絵本を3冊ほど読んでもらったあと、暫く各々好きな本を読んで、12時頃にPreschoolに戻る。
そこからはランチ。子供たちが持ってきているランチは実に様々。お好み焼きみたいなものを一枚持ってきている子供、ポテトチップスばかり食べている子供、ほとんど具のないサンドウィッチをかじっている子供など、どれも「こんなものでいいのか」と思う手抜きランチ。日本風に弁同箱におにぎりとおかずが入っている我が家の弁当は、例外的に「豪華」。まだ皆幼いので、他人のランチを見てどうこう言ったりはしないのだが・・・。
食事を終えると、他の子供は徐々に昼寝に入ってゆくが、我が家はそこで早めの帰宅となる。
都合4時間ほどしか滞在していないが、思いのほか色々な活動があって、それらを保育士がチームワーク良く立ち回りながら安全にこなしてゆくのには感心したし、良い学校に子供を入れることができて良かった、と感じた。多様な子供を抱えて難しいはずの米国の幼児教育が、思いのほか手際よく、また教育的要素も適度に取り入れながら、良いバランスで運営されていることは、ちょっとした驚きであった。ここでの経験を娘がどれだけ先々覚えているものかは分からないが、彼女の人生にとってプラスであって欲しいと願う。
こちらの幼児教育制度では、2歳9ヶ月からPreschoolに通い始め、その後kindergarten、小学校と進学していく。いわば米国教育課程の入り口に立ったわけである。
本来は月曜日から金曜日まで週5日の課程なのだが、市役所側のミスなど諸々事情があって、9月の間は週二回だけ保護者同伴で通うことになった。普段は妻が同伴するのだが、今日は私が同伴する機会を得た。
Cambridge市内の住宅地の中にある学校は、Preschoolから小学校までが併設された大きな建物で、その中の一室を充てられたPreschoolでは、14人の子供が、4人の保育士によってケアされている。公立で、その分授業料も比較的安いのだが、子供と保育士の人数比でみるケアの密度は日本の比較にならない。
14人の子供の人種・バックグラウンドは様々で、白人/黒人/黄色人種、英語系/スペイン語系/フランス語系/韓国語系、といろいろな子供がいる。
9時頃に教室に着くと、既にウチの長女以外の子供は全員そろっていて、お絵かき、ママゴトなど、皆めいめいに遊んでいた。長女も徐々にそこに入ってゆく。
10時頃になると、おもちゃを片付けて「ミーティング」。それぞれの子供の名前を書いた丸い座布団のようなものに座って、保育士さんの話を聞いたり、歌を歌ったり、「今日は何曜日?」といったクイズをしたりしつつ、外出の準備に移ってゆく。
そして10時半頃にはPreschoolを出て、徒歩15分(子供の足で)ほどのところにある公園へ。公園内での保育士の監督は極めてシンプル。子供たちの行動可能範囲を示し、ブランコは危ないから近寄らないように、という指示を出して、あとは時折子供たちの遊びに加わったりしながら、基本的に「放置」している。
30-40分で公園遊びを切り上げると、今度は近くの図書館へ。図書館職員の女性に絵本を3冊ほど読んでもらったあと、暫く各々好きな本を読んで、12時頃にPreschoolに戻る。
そこからはランチ。子供たちが持ってきているランチは実に様々。お好み焼きみたいなものを一枚持ってきている子供、ポテトチップスばかり食べている子供、ほとんど具のないサンドウィッチをかじっている子供など、どれも「こんなものでいいのか」と思う手抜きランチ。日本風に弁同箱におにぎりとおかずが入っている我が家の弁当は、例外的に「豪華」。まだ皆幼いので、他人のランチを見てどうこう言ったりはしないのだが・・・。
食事を終えると、他の子供は徐々に昼寝に入ってゆくが、我が家はそこで早めの帰宅となる。
都合4時間ほどしか滞在していないが、思いのほか色々な活動があって、それらを保育士がチームワーク良く立ち回りながら安全にこなしてゆくのには感心したし、良い学校に子供を入れることができて良かった、と感じた。多様な子供を抱えて難しいはずの米国の幼児教育が、思いのほか手際よく、また教育的要素も適度に取り入れながら、良いバランスで運営されていることは、ちょっとした驚きであった。ここでの経験を娘がどれだけ先々覚えているものかは分からないが、彼女の人生にとってプラスであって欲しいと願う。
卒業後の進路について、このところずっと思い悩んできたが、自分を送り出してくれたコンサルティング・ファームに復帰することに決めた。
このブログでも書いてきたように、夏にインターンでお世話になったPEファームは、プロとして挑戦していくには非常にやりがいのある環境に思えたし、そこで働く人々も非常に優秀で、5年前に鉄道会社からコンサルティング・ファームに移ったときのような新鮮な驚きと感動があった。また先方からも非常に高く評価していただき、経済的にも極めて魅力的なパッケージを提示していただいた。何より、卒業後にすぐ日本に戻るのではなく、ボストンで1年ほど「修行」する機会を提案していただいたことには、非常に大きな魅力を感じた。インターン中のサポートも含め、心から感謝している。
しかし、やはりコンサルティングに戻ろうと思う。
自分が世界トップ5に入るPEファームのボストン本社で、自分の部屋を持って米国人の部下を指揮しながら米国企業への投資を検討し、親の退職金に匹敵するような年収をもらう、ということなど、ついこの間までは想像も出来なかったことであるし、コンサルティング・ファームに入るまでは、そんな世界を知りさえしなかった。そこに至る道を得るような立場になれたのは、家族や周りの人々の支えもあるが、やはり貴重な成長の機会を与えていただき、プロとして鍛えていただいたコンサルティング・ファームおよびその顧客企業のお陰、というのが一番大きい。そこでは、「結果を出す」「顧客企業を変革する」ということを耳にタコができるほど聞かされてきたが、それがどういうことで、具体的にコンサルタントとして何をすればいいか、そうしたことが何となく見えてきて、「私はコンサルタントです」と名乗って余り恥ずかしくなくなったのは、米国に来た日から遡ること1年にも満たないように思う。つまり、プロのコンサルタントとしてバリューを出してきたと思えるのは、ビジネススクールの在学期間よりも短い、ということである。ここで辞めてしまっては、育てていただいたファームや顧客企業の皆様に申し訳が立たないのではないか、と思う。
人類初の宇宙飛行士であるガガーリンは「大切なのは、人に必要とされること」という言葉を残している。
また、史記には、「士は己を知るもののために死しても可なり」という言葉もある。
今、PEファームの人々、およびその投資先(+投資先候補)の企業の人々と、かつて所属していたコンサルティング・ファームの人々、およびその顧客企業(+顧客企業候補)の人々と、どちらが私をより「知って」くれていて、どちらが私をより必要としていくれているか、と考えると、前者であるとはいいがたい。
また、私がプロフェッショナル・ファームでの仕事を選んだのは、自分の成長という目的のほかに、組織やその中の政治的な立場に依存しない生き方をしたかったからであった。カナダの生理学者で、ストレス学説の提唱者であるハンス・セリエは、「ストレスとは、他に依存することによって生じる精神的な束縛感、重圧感である」と言ったそうだが、まさにコンサルティング・ファームにおいては、そうした意味での精神的な束縛感、重圧感がない。もちろん、高いフィーを支払っていただいている顧客企業に対して感じるプレッシャーはあるが、実際に複数の業界・企業で「結果」を出した経験と、それに基づくスキルがあるため、「結果が出るかどうかは顧客企業次第ではなく、あくまで自分たちプロの仕事次第」と割り切ることが出来、「他への依存」が少ない。従って、気持ちの悪いストレスがない。
インターン中は、これがどうしても払拭できなかった。投資案件が獲得できるかどうかは市場次第、投資先候補としてあげた企業の考え方次第であるし、投資が実行できるかどうかも金融市場次第、また実際にリターンが出るかも、投資後5年ほど経ったときの市場環境に左右されるところが極めて大きい。ファームの中においても、誰と一緒に働くか、による仕事のやり方や成功確度の差が非常に大きい。結果として、さほど忙しくないときでも、何ともいえないストレスを感じていた。
そして何より、大げさな話になるが、少なくとも今の日本において、私が何をすることが世の中のためになるか、を考えると、コンサルティングに従事することが使命なのではないか、と思う。かつての日本海軍を率いた山本五十六が学生に講演した際に「どこまでも気を広く持ち、高遠なる所に目標をおいて、日本のため進んでください」と語っている。私はまだ「高遠なる所の目標」がはっきりとは見えていないのかもしれないし、数年後の環境においては、PEファームこそが自分の能力を日本のために役立てる場なのかもしれない。しかし今の環境では、コンサルティング・ファームが、自分が成長しつつ、自分の力で日本に貢献できる場ではないか、と思う。
今後10年経ってもコンサルティングをやっているのか、と問われれば、それは全くわからない。上記に述べたような前提が変わる可能性が大いにあるからである。ただ今は、自分の進むべき道はそこにあるように思う。子供の教育など、家族のことを考えると、何が正解なのかまたわからなくなってしまうが、幸い妻も応援してくれているので、ここで決心を固めることにした。
このブログでも書いてきたように、夏にインターンでお世話になったPEファームは、プロとして挑戦していくには非常にやりがいのある環境に思えたし、そこで働く人々も非常に優秀で、5年前に鉄道会社からコンサルティング・ファームに移ったときのような新鮮な驚きと感動があった。また先方からも非常に高く評価していただき、経済的にも極めて魅力的なパッケージを提示していただいた。何より、卒業後にすぐ日本に戻るのではなく、ボストンで1年ほど「修行」する機会を提案していただいたことには、非常に大きな魅力を感じた。インターン中のサポートも含め、心から感謝している。
しかし、やはりコンサルティングに戻ろうと思う。
自分が世界トップ5に入るPEファームのボストン本社で、自分の部屋を持って米国人の部下を指揮しながら米国企業への投資を検討し、親の退職金に匹敵するような年収をもらう、ということなど、ついこの間までは想像も出来なかったことであるし、コンサルティング・ファームに入るまでは、そんな世界を知りさえしなかった。そこに至る道を得るような立場になれたのは、家族や周りの人々の支えもあるが、やはり貴重な成長の機会を与えていただき、プロとして鍛えていただいたコンサルティング・ファームおよびその顧客企業のお陰、というのが一番大きい。そこでは、「結果を出す」「顧客企業を変革する」ということを耳にタコができるほど聞かされてきたが、それがどういうことで、具体的にコンサルタントとして何をすればいいか、そうしたことが何となく見えてきて、「私はコンサルタントです」と名乗って余り恥ずかしくなくなったのは、米国に来た日から遡ること1年にも満たないように思う。つまり、プロのコンサルタントとしてバリューを出してきたと思えるのは、ビジネススクールの在学期間よりも短い、ということである。ここで辞めてしまっては、育てていただいたファームや顧客企業の皆様に申し訳が立たないのではないか、と思う。
人類初の宇宙飛行士であるガガーリンは「大切なのは、人に必要とされること」という言葉を残している。
また、史記には、「士は己を知るもののために死しても可なり」という言葉もある。
今、PEファームの人々、およびその投資先(+投資先候補)の企業の人々と、かつて所属していたコンサルティング・ファームの人々、およびその顧客企業(+顧客企業候補)の人々と、どちらが私をより「知って」くれていて、どちらが私をより必要としていくれているか、と考えると、前者であるとはいいがたい。
また、私がプロフェッショナル・ファームでの仕事を選んだのは、自分の成長という目的のほかに、組織やその中の政治的な立場に依存しない生き方をしたかったからであった。カナダの生理学者で、ストレス学説の提唱者であるハンス・セリエは、「ストレスとは、他に依存することによって生じる精神的な束縛感、重圧感である」と言ったそうだが、まさにコンサルティング・ファームにおいては、そうした意味での精神的な束縛感、重圧感がない。もちろん、高いフィーを支払っていただいている顧客企業に対して感じるプレッシャーはあるが、実際に複数の業界・企業で「結果」を出した経験と、それに基づくスキルがあるため、「結果が出るかどうかは顧客企業次第ではなく、あくまで自分たちプロの仕事次第」と割り切ることが出来、「他への依存」が少ない。従って、気持ちの悪いストレスがない。
インターン中は、これがどうしても払拭できなかった。投資案件が獲得できるかどうかは市場次第、投資先候補としてあげた企業の考え方次第であるし、投資が実行できるかどうかも金融市場次第、また実際にリターンが出るかも、投資後5年ほど経ったときの市場環境に左右されるところが極めて大きい。ファームの中においても、誰と一緒に働くか、による仕事のやり方や成功確度の差が非常に大きい。結果として、さほど忙しくないときでも、何ともいえないストレスを感じていた。
そして何より、大げさな話になるが、少なくとも今の日本において、私が何をすることが世の中のためになるか、を考えると、コンサルティングに従事することが使命なのではないか、と思う。かつての日本海軍を率いた山本五十六が学生に講演した際に「どこまでも気を広く持ち、高遠なる所に目標をおいて、日本のため進んでください」と語っている。私はまだ「高遠なる所の目標」がはっきりとは見えていないのかもしれないし、数年後の環境においては、PEファームこそが自分の能力を日本のために役立てる場なのかもしれない。しかし今の環境では、コンサルティング・ファームが、自分が成長しつつ、自分の力で日本に貢献できる場ではないか、と思う。
今後10年経ってもコンサルティングをやっているのか、と問われれば、それは全くわからない。上記に述べたような前提が変わる可能性が大いにあるからである。ただ今は、自分の進むべき道はそこにあるように思う。子供の教育など、家族のことを考えると、何が正解なのかまたわからなくなってしまうが、幸い妻も応援してくれているので、ここで決心を固めることにした。
新入生のウキウキ感が覚めやらないうちに、ということで、秋学期開始から1週間目の今日、SloanGear今学期初売りを行った。夏休みのうちに、チームメンバーの参画度合いや、人間関係に大きな変化がおきていないかと多少心配したが、皆積極的に参加してくれた。
1年生の間にある程度SloanGearを認知させることが出来たこと、1年生の「特需」だけでなく、一部の新商品で2年生の購買も刺激できたこと、などが大きな達成点であったが、売上は金額的には次第点ながらも昨年同時期の実績に及ばなかった。「わかりやすさ」と「認知度向上」のために、「ロビーセールス毎月やります」という方針を打ち出したが、それがかえって学生の「今買わなければ」という購買意欲を減退させた可能性もある。来月のセールスが勝負になるかもしれない。
売上以上に残念だったのが、心無い人による商品の盗難である。セールスは、昼休みを含めた授業の間の休み時間に集中するため、その時間帯の売り場は蜂の巣を突いたような騒ぎになり、「万引き」はやろうと思えば比較的簡単だろう。ただ世界に名だたるビジネススクールまで来てそれをやるか、と思うと、情けなくなる。MITのマスコットであるビーバーのぬいぐるみなどは、10個入ったダンボール箱を丸ごと盗まれてしまった。我々の管理不行き届きは厳粛に反省し、改めなければならないが・・・。
1年生の間にある程度SloanGearを認知させることが出来たこと、1年生の「特需」だけでなく、一部の新商品で2年生の購買も刺激できたこと、などが大きな達成点であったが、売上は金額的には次第点ながらも昨年同時期の実績に及ばなかった。「わかりやすさ」と「認知度向上」のために、「ロビーセールス毎月やります」という方針を打ち出したが、それがかえって学生の「今買わなければ」という購買意欲を減退させた可能性もある。来月のセールスが勝負になるかもしれない。
売上以上に残念だったのが、心無い人による商品の盗難である。セールスは、昼休みを含めた授業の間の休み時間に集中するため、その時間帯の売り場は蜂の巣を突いたような騒ぎになり、「万引き」はやろうと思えば比較的簡単だろう。ただ世界に名だたるビジネススクールまで来てそれをやるか、と思うと、情けなくなる。MITのマスコットであるビーバーのぬいぐるみなどは、10個入ったダンボール箱を丸ごと盗まれてしまった。我々の管理不行き届きは厳粛に反省し、改めなければならないが・・・。
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Shintaro
性別:
男性
職業:
経営コンサルタント
趣味:
旅行、ジャズ鑑賞
自己紹介:
世の中を素直に見ることが苦手な関西人。
MITスローン校でのMBA、プライベート・エクイティでのインターン、アパレル会社SloanGearの経営、そして米国での生活から、何を感じ、何を学ぶのかー。
ご意見、ご感想は↓まで
sloangear★gmail.com
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