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在る偏屈者による半年遅れのMBA留学日記、そして帰国後に思うこと
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他人の多様な才能、特に本業以外の才能を目にすると、素直に驚嘆するとともに、己の無能さ、狭さに恥じ入ってしまう。
今夜もそんな思いで胸がいっぱいになった。

Sloan Talent Showと題して、スローン学生が自分の仕事・学業以外の文化・芸術的才能を披露するステージがひらかれた。
1年生、2年生それぞれから、あわせて10数組が出演、様々な「芸」を披露した。
ロックバンドあり、カントリーソングあり、クラシックあり、アカペラあり、コントありで、内容は実に多彩、そして概してそれぞれのレベルが実に高い。
同級生の米国人二人がタキシードを着て玄人裸足の司会をし、同級生日本人からも二組がステージに立った。
一組は、ステージ上でパフォーマンスを見せながらカンバスに絵(モダンアート)を描いていく、というもの。
もう一組は、フルートとピアノによるクラシック楽曲のデュオおよびソロ演奏。
特に後者については、自分が吹奏楽部で楽器をいじっていたので、聞惚れつつ、己の中途半端さが悔しくて仕方なかった。
もともと何かに燃えるような熱意を見出せない性格なので、芸術とかスポーツとかに向いていないのかもしれないが、社会に出るまでの長い長い学生時代に、一体何をしていたのかと、恥ずかしくなる。

小学校から習い始めたサッカーは断続的にやっているし、吹奏楽部でサックスを吹いた。
それぞれ、今でも好きである。
しかし、モノになっていない。
特に才能もない人間が、上手くなりたい、という強い気持ちで必死に練習したことがこれまで一度もないのだから、無理もない。
ただ、振り返って思うに、なぜあれほど自由な時間があった学生時代(小学校から大学までの計16年間)になぜもっと地道に努力しなかったのかと、自分でも呆れてしまう。

仕事が趣味、と胸を張って言うほどの割り切りもない。
かといって、今から頭を下げて何かを習おうというほどの気概もない。

我ながら、本当に、詰まらない人間である。

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二日ぶりに、妻が帰宅した。
もちろん、生まれたばかりの次女を連れてである。

日本で出産した場合は、病院によっても差はあるらしいが、産後母子ともに概ね1週間程度は病院で寝起きし、それから自宅に帰されるのが通例だと思う。
ところが米国の場合は(これも州によるという話も聞くが)、特に問題がなければ産後48時間で退院となる。我が家の場合は、4日の未明に生まれているので、6日の午前中(特に具体的な時刻は言われなかった)に退院することになった。

朝から長女を連れて病院を訪ねると、妻は概ね帰る準備を終えていたが、何人もの看護婦が入れ替わり立ち代り現れては、赤ん坊の体温を測ったり、体重を量ったり、妻の様子を見たり、無駄口を叩いたりして去っていく。退院に至るプロセスの全体像がみえないので、今どこまで何が進んでいて、後何をすれば帰れるのかも分からず、イライラする。
いつもながら余談だが、米国の病院はまったくもって看護婦が過剰にいる。考えてみれば、レストランに行ってもウェイターが過剰にいるし、ホテルのドアマンや、あるいは大学の学生課のようなところも、サービススタッフは本当に多い。次女が誕生した病院は、タイの現国王プミポン陛下も誕生した(肖像画が廊下に飾られている)という名の通った病院で、確かにサービスは悪くないのだが、とにかく人が多すぎて、しかも指揮命令系統がはっきりしていない(各人のプロ意識・職業道徳に任されている)ため、ひたすら作業の重複・無駄・抜け漏れが多い。この日も、とにかく誰に聞いても後何をすれば帰れるのか、帰ってよし、という判断はだれがするのかがはっきりせず、閉口した。

もうそろそろ昼食時間、という頃、やっと解放される。散々待たせておいて、見送りとかそういう「セレモニー」はまったくない。もっとも、長女出産後の退院時に岐阜の産婦人科専門病院で見かけたこともなかった病院長が突然現れ、見送りだけして消えて入ったのよりは、何もない方が自然だが。

皆でクルマに乗り込み、病院を後にする。後部座席は、二台のベビーシートでいっぱいだ。こういう有り様をみると、二児の親父になったことを痛感する。

すぐに自宅に到着。次女にとっては初めての病院外の世界、初めての「自宅」だ。怪訝そうな、面白くなさそうな顔をしていることが多い。
長女のリアクションも心配だったが、今のところ妹の存在を歓迎している様子だ。オムツを替えたりしていると、嬉しそうに覗き込みにくる。
Haruka_and_Rinka.JPG

これから家族四人、どんな生活になるのか。
まだちょっと想像できない。
少なくとも、オムツが大量に要ることは、間違いなさそうだ。



遂に、次女が誕生した。
予定日の一日前、3350グラムで、元気に生まれてくれた。
12月4日、長い一日となった。


同日の午前1時を過ぎ、取り組んでいた宿題を終え、妻と少し話していた。今日もどうやら陣痛がこなさそうだ、とか、一人目のときは陣痛なしで破水したから、今回もそうなのだろうか、とか。ともかく、こんな時間に陣痛が来ても大変なので寝てしまおう、ということで、妻が先にベッドに入り、私もワインを一杯飲んで、就寝の準備をしていた。
ところが、1時半をまわった頃、妻が突然、
「お腹がいたい。いつもと違う。来たみたい」
と言い始めた。
やらなければいけないことのアジェンダが、整理されないまま頭を錯綜する。
長女をどうするか、とか、病院にもっていくものは、とか、道路状況はどうだろうか、とか、いろいろ考えるが、まずは病院に電話をしなければならない。
出産を予定していたのは、Mount Auburn Hospitalという、このあたりでも産婦人科では名の通った病院なのだが、かかり付けがMITの附属診療所であるMIT Medicalであるため、まずはMIT Medicalの救急に電話をして、そこからMount Auburn Hospitalに通報してもらい、我々は同病院からの折り返し連絡を待つ、という面倒な手順を踏まなければならない。
幸い、MIT Medicalの救急担当はすばやく要点を理解し、取り次いでくれた。折り返しの連絡を待つ間、ぐっすり寝ている1歳の長女をどうするかを考える。英語の問題もあり、私が妻から離れられないため、連れて行くことはできない。預かってもらうとすると、彼女が一番懐いているのは、同じWestgateに住む日本人家族DOさん一家であるが、同家も最近二人目のお子さんができたばかり。そこで当初の心づもりでは、日中に陣痛がきたらDOさん一家にお願いし、夜間にきたらスローンの日本人同級生HW君の奥様にお願いしよう、ということで、それぞれにもそのようにお願いしていた。ところが、ここまで深夜で、娘も熟睡してしまっていると、子供のないHW君一家にいきなり放り込むというのは、やはり気が引ける。幸い、直前に別件でDOさんと電子メールのやり取りをしていたので、まだ就寝前であることは確かな様子。そこでDOさんに電話をしてみると、受け入れを快諾してくれた。
ちょうど、Mount Auburn Hospitalから電話が入り、すぐに来なさい、という。さっそく長女をパジャマのまま布団ごと簀巻きにして、彼女の着替え一式が入ったカバンとともに、DOさん宅に送り届ける。脇に抱えて走っている途中で、流石に寒さで彼女の目も覚めてしまったが、DOさん宅に着くと、用意してくれていた敷布団に腰を下ろして、大人しくしてくれた。DOさんに頭を下げ、自宅に戻り、今度は妻と、妻の身の回りのもの一式をもって、車に走る。
折からの雪と寒さで、道路は凍結していたが、時間が時間だけに交通量もなく、また雪国仕様の車のため、多少の凍結ではビクともしない。5分ほどで病院に到着し、救急受付から産婦人科に入った。

時刻は午前2時過ぎ。6畳ほどの広さの検査室に通される。妻は多少不定期に訪れる陣痛の波に苦しんでいた。看護婦が現れて妻の容態をみる。子宮口を測ると、まだ4cmほどしか開いていないということで、分娩室で暫く休むことになった。
日本の一般的な病院とは異なり、米国では陣痛室と分娩室が一緒になっている。広々とした完全な個室で、患者の緊張を和らげるためか、病院的な無機質な内装ではなく木材を多用した温かみのある内装で、テレビやステレオがあり、バストイレも完備である。ここでまた、看護婦の検査を受けた後、担当医の紹介などを経て、無痛分娩のための麻酔の投与に入る。長女のときはまったくの自然分娩であったが、米国の無痛分娩は体力の回復も早くて良いと妻が勧められたようで、この方法を選択していた。最初は、点滴のようなかたちで、静脈から比較的緩い麻酔薬を投与していく。無痛分娩そのもののための麻酔は背中(脊椎?)に注入するが、これがとんでもなく痛いらしく、この麻酔のための麻酔を投与することになる。点滴液のような注射液のバッグを二袋投与し終えた頃に、耳にピアスをつけた男性の麻酔医師が来て、酷い頭痛やら何やら、ひとしきり副作用の警告をして、それに承諾したというサインを求めてくる。サインをすると、今度は自分と看護婦だけでやるから、部屋から出て行け、という。抵抗も出来ないので、一旦部屋を外し、待合で睡魔と格闘し、部屋に戻ると妻の背中から注射液の管が延びていた。時刻は4時前。そのまま子宮口が開くまで、仮眠でもするように、と言われて、部屋の照明が消える。

午前5時半頃、陣痛が酷くなってきたようだ。看護婦を呼ぶと、こちらには何も言わず、
"She is ready"
と部屋の外にコールしている。
いよいよのようだ。
看護婦二人と、一度自己紹介された女性の執刀医が現れた。
暫く間をおいて、妻は出産の体勢をとらされる。日本で長女を出産した際は、足はベッドに附属の金具で固定されていたが、ここでは妻の片側の足をお前が持て、といわれる。流石に抵抗があり、固辞すると、妻が自分で膝裏を支えて、看護婦二人が左右それぞれから支えるかたちになった。
そしてそのまま出産に入る。私は、なすすべもなく、妻の枕元にいるだけである。日本だと、手を握ったり、役にも立たないがそれらしいことができるが、ここでは妻の両手は多忙で、そんな余裕はない。
陣痛の波にあわせて息む。3回目くらいで、胎児がほぼ出口に到達する。4回目、半身が出ている。生々しい光景が目の前で繰り広げられ、妻には失礼ながらも、目を覆ってしまう。そして、5回目、無事赤ん坊が取り上げられ、へその緒が着いたまま、妻の腹の上に載せられた。
6時18分、次女が生まれた瞬間であった。

依然、看護婦や医師は忙しそうに動いている。
感動する暇もなく、私にも鋏が手渡され、へその緒を切れという。これは噂に聞いていたが、とてもそんな恐ろしいことはできないので、出産前にも予め断っていた。しかし、やっぱりやれという。曰く、父親の責務(responsibility)である、と。
そこまで言われては引き下がれないので、名誉のテープカットをやる。当たり前だが、肉切りバサミで肉を切る感覚に近い。なんともいえない、生理的抵抗感を感じる。
カット後、赤ん坊はタオルに巻かれ、帽子を着せられて、"All set"(一丁あがり)と声がかかった。産湯につかるとか、そういう感覚はないようである。
Haruka_born01.JPG
長女のときに比べると、随分と大きい気がした。身体がしっかりしている。頭もそれほど長くなっていない(長女はコーンヘッドであった)。目はまだほとんど閉じていて良くわからないが、鼻は高そうである。顔は真っ赤で、文字通り赤ん坊だ。とにかく五体満足に生まれてくれて、ほっとする。まだ、かわいいとか、そういう感情をもつ段階に至っていない。
Haruka_born03.JPG
看護婦が妻の胸から赤ん坊を取り上げて体重計に載せる。3350グラム、やはりちょっと大きめか。
Haruka_born02.JPG
病院にはパソコンとウェブカメラを持参していた。大阪にある私の実家と、岐阜にある妻の実家、それぞれ順にスカイプで繋ぎ、生まれたばかりの赤ん坊の映像を送る。もちろん直接会うのが一番いいのだが、それでも技術の力に一同感謝する。

医師は、まだ仕事を続けている。胎盤を取り出し、局部を縫合する。
とても見ていられないので目を背けつつ、左目の視界の端でちょっと捉えている。胎盤が、トレーに置かれている。
「プレゼンターをどうするか」と医師が突然私に訊いてきた。
何のことかわからず、訊きなおすと、同じセリフをもう一度言われた。
話が飛ぶが、この日は午後にコミュニケーションのクラスで、Team Projectのプレゼンが予定されていた。そのことかと思い(今思えばそんなはずはないのだが)、
「自分としてもできるように努力はするが、自分が行けなくても、チームメートがかわりにやってくれるように頼んである」
と答えると、お前は阿呆か、という顔をして、こっちをみている。
その瞬間、Presenterとは胎盤を意味するのだ、と気づき、顔を赤くしながら、処分してください、と答えた。
恥ずかしさを紛らわせるために、普通はどうするのだ、と訊いてみた。持ってかえって庭に埋め、そこに記念の植樹をしたり、あるいは食べたりする人もあるらしい。どちらも願い下げなので、やはり処分してください、と再度頼む。

一通りの片づけが終わり、出産作業は一段落。ちょうど夜明けの時間となり、分娩室の窓からは朝焼けの空が見え、その下のハイウェイを往来する自動車の量も増えてきた。
小休止の後、赤ん坊は新生児室に移され、妻はRecovery Roomと呼ばれる産後用の病室に移る。
こちらも落ち着いた個室で、快適に過ごすことができそうだった。カーテンを開けると、外はかなり明るくなっていた。ボストンの北部から続く幹線道路がみえる。遠いところで妻も出産したものだ、という感慨が、改めて湧き上がってくる。
Haruka_born04.JPG

二人で病院から出される朝食(豊富なメニューから組み合わせることができ、思ったよりイケる)を食べ、役所に届ける書類などをもらって、妻と一旦離れて自宅に帰る。

自宅に戻ったのは、9時半ごろであった。
DOさん宅に預けた長女の様子が気になり、電話をしてみると、まだ寝ているという。奥さんの話では、深夜2時に預けた後、暫く眠れなかったようで、4時ごろにやっと眠ったらしい。ただ、眠れない間も泣きも暴れもせず、大人しくしていたとのこと。本当であれば、子供ながらに状況を何となく察していたのだろうか。午後の授業があるという話が妻からいっていたようで、このまま午後まで預かりますよ、と奥さんが申し出てくださった。ご厚意に甘えることにする。
多少部屋を片付けたりしてから、親族やら友人やらに、生まれたばかりの娘の写真を添えて、報告のメールを送る。こういうことは、一刻も早く、多くの人に知って欲しいものだ。
その後2時間ほど仮眠し、簡単に昼食を済ませて、学校に行く。
一部のクラスメートの間では、午前中私がまったく姿を見せなかったことから、遂にあいつは子供の出産が訪れたのか、という話になっていたようで、教室に私が顔を出すと、驚きと祝福の声が寄せられた。何となく、予定(?)では、授業中に妻から陣痛開始を告げる電話がかかってきて、慌てて早退し、その背中からクラスメートの拍手が浴びせられる、というシーンを思い描いていたのだが、何にせよ祝福してもらえるのは嬉しいことだ。ラテン系のクラスメートは、ハグをして祝福してくれた。

予定されていたTeam Projectのプレゼンは、それなりに上手くいった。睡眠不足でプレゼンをするのは、仕事上慣れている。
自分の発表が終わったところで、チームメートや教授から、早く家族のところに行ってやれ、と背中を押されて、あっさりと早退。犬が小便をしに来たような短時間滞在で、多少恥ずかしかった。

4時ごろ、自宅に戻り、長女を迎えにいく。
DOさんのお宅で、長女は同家の食卓に出されたオヤツを食べていた。父親の顔をみても、動じる様子はない。奥さんによると、朝から同家の男の子のオモチャで遊び、食事をいただいて、機嫌よく過ごしていたらしい。オヤツを食べ終え、「帰ろうか」と声をかけると、「うん」と言って上着をとり、靴を履きに来る。身支度を整え、挨拶を促すと、奥さんに向かって「あーたーま(ありがとうございます、のつもり)」と言って頭を下げた。あまりの健気さに涙が出そうになる。

二人で一旦自宅に戻った後、再び病院に行く。
姉妹の、初対面である。
ベッドの赤ん坊を指して、「赤ちゃんが生まれたよ、妹だよ」と説明すると、暫く不思議そうに見ていたが、やがて指をさして「ベイビー」と呼んだ。目の前の物体を、認識したようである。
Haruka_born05.JPG
妻と顔を見合わせて笑った。幸せな瞬間だった。

暫く病室で過ごし、皆で夕食を食べて、長女と私は自宅に戻る。帰り際、長女が母親と離れがたくて泣くかと
思ったが、バイバイ、と言って素直に病室を後にした。我が子ながら、こんなに良い子だとは知らなかった。姉の自覚か?

なお、次女は「遙香(はるか)」と名づけた。
遙かな可能性への期待と、日本から遙か遠くの地で生まれたという意味をこめた名前である。
Hの音がガイジンに発音しにくいかとも思ったが、結局最後までベターな案が出なかった。ミドルネームも、何だか妙なのでやめた。長女のときもそうだったが、命名してすぐは、まだその名前に慣れない。これから、何万回とその名を呼んで、笑ったり、喜んだり、怒ったり、悲しんだりするうちに、良い名前だと思えれば良いと願う。

皆様、今日はどうもお疲れ様でした。




4回シリーズのSales Trainingも、今日が最後である。
前回(第三回)は、さぼって焼肉を食いに行ってしまったので見逃したが、第二回で学んだコミュニケーションの仕方を実際に使って、第三回では参加者がそれぞれ知らない会社や個人にコンタクトし、希望のアポイントメントを取れるかどうかを試したらしい。そして今回は、その結果(アポが取れたかどうか)を皆でレビューしながら、「ツカミ」が出来た場合のその先のコミュニケーションの仕方を学ぶ、という内容であった。

前回のトレーニングでランダムに選ばれた学生二人が結果を報告した。
一人は学生イベントのためにワインメーカーからの協賛(ワインの無償提供)を、
もう一人は講演依頼のためにテレビ局トップとのミーティングを、
それぞれ依頼するのが目的で、まったく伝手なく飛び込みのメールを投げかけていた。
メールの内容は前回のトレーニングの中でスクリーンに映しながら講師が修正したものである。
結果は、前者の学生は1社から前向きに検討したいので詳細を議論しよう、という返事を得、後者は最初のメールから既に2往復のメールのやり取りを終えていて、テレビ局トップの直接連絡先を入手していた。
トレーニングでここまでのリスク(これで両者とも返事を得ていなければ、彼の信用は失墜している)をとり、ここまで明確な成果を、しかも短期間で実証してみせたトレーニングを、私は知らない。まさに、結果を出すトレーニングである。

講義終了時には、2分間ほど拍手が鳴り止まなかった。また、午後7時から9時という遅い時間にもかかわらず、50名以上の学生が常に参加していたことが、このトレーニングの評価を物語っているだろう。

世の中には、いろいろな側面で一芸に秀でた人というのはいるものである。

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Sales Training
Sales Training 2


第二子の出産は、まだ訪れない。
びくびくした日が続く。
あまり外出もできないので、長女と家で遊ぶ時間が長くなる(勉強しろよ)。

このところ、レゴ・ブロック(正確にはその幼児向けモデルであるデュプロ)で遊んでいる。Burlington Mallというこの近辺では一番大きいショッピングモールに先週訪れた際、Lego Shopを見つけ、ちょっと早めの誕生日プレゼント(もしくはクリスマスプレゼント)として、基礎的なセットを2種類買い求めた。

対象年齢が2歳からなので、まだちょっと早いのか、今のところはブロックをうまくくっつけることができず、自分で何かを作るよりも、出来上がったもので遊ぶばかりである。それでも、ちょうどウマやらウシやらブタやら、動物の造形と名前を覚えつつあったところだったので、そうした動物の人形で初歩的なごっこ遊びをしたり、それなりに遊びになっている。

今日は、娘に動物をリクエストさせて、それに基づいて私が注文のものを作ってやる、ということをしてみた。まだ自分で作ってみたいと言ったりはしないが、子供のことだから、見ていないようで見ているだろう。そのうち、何か自分でやるかもしれない。仮に作ってみたいと言い出さなかったとしても、単なる四角いブロックがいくつか組み合わさっただけの物体を、ブタだのニワトリだのといって想像力を膨らますだけで、教育効果がありそうな気がした。
なにより、ブロック遊びは私が子供のころに随分とはまっていた遊びで、その後の自分の発達に良い影響があったと自分で感じているので、自分の子供にも(彼女がそれを好きかどうかはわからないが)機会を与えてやりたいと思っていた。それがちょっと思ったよりも早く訪れて、私自身が幸せだった。

そのうち飽きるかもしれないが、もう少し付き合ってみたい。



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PROFILE
HN:
Shintaro
性別:
男性
職業:
経営コンサルタント
趣味:
旅行、ジャズ鑑賞
自己紹介:
世の中を素直に見ることが苦手な関西人。
MITスローン校でのMBA、プライベート・エクイティでのインターン、アパレル会社SloanGearの経営、そして米国での生活から、何を感じ、何を学ぶのかー。

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