遂に、次女が誕生した。
予定日の一日前、3350グラムで、元気に生まれてくれた。
12月4日、長い一日となった。
同日の午前1時を過ぎ、取り組んでいた宿題を終え、妻と少し話していた。今日もどうやら陣痛がこなさそうだ、とか、一人目のときは陣痛なしで破水したから、今回もそうなのだろうか、とか。ともかく、こんな時間に陣痛が来ても大変なので寝てしまおう、ということで、妻が先にベッドに入り、私もワインを一杯飲んで、就寝の準備をしていた。
ところが、1時半をまわった頃、妻が突然、
「お腹がいたい。いつもと違う。来たみたい」
と言い始めた。
やらなければいけないことのアジェンダが、整理されないまま頭を錯綜する。
長女をどうするか、とか、病院にもっていくものは、とか、道路状況はどうだろうか、とか、いろいろ考えるが、まずは病院に電話をしなければならない。
出産を予定していたのは、Mount Auburn Hospitalという、このあたりでも産婦人科では名の通った病院なのだが、かかり付けがMITの附属診療所であるMIT Medicalであるため、まずはMIT Medicalの救急に電話をして、そこからMount Auburn Hospitalに通報してもらい、我々は同病院からの折り返し連絡を待つ、という面倒な手順を踏まなければならない。
幸い、MIT Medicalの救急担当はすばやく要点を理解し、取り次いでくれた。折り返しの連絡を待つ間、ぐっすり寝ている1歳の長女をどうするかを考える。英語の問題もあり、私が妻から離れられないため、連れて行くことはできない。預かってもらうとすると、彼女が一番懐いているのは、同じWestgateに住む日本人家族DOさん一家であるが、同家も最近二人目のお子さんができたばかり。そこで当初の心づもりでは、日中に陣痛がきたらDOさん一家にお願いし、夜間にきたらスローンの日本人同級生HW君の奥様にお願いしよう、ということで、それぞれにもそのようにお願いしていた。ところが、ここまで深夜で、娘も熟睡してしまっていると、子供のないHW君一家にいきなり放り込むというのは、やはり気が引ける。幸い、直前に別件でDOさんと電子メールのやり取りをしていたので、まだ就寝前であることは確かな様子。そこでDOさんに電話をしてみると、受け入れを快諾してくれた。
ちょうど、Mount Auburn Hospitalから電話が入り、すぐに来なさい、という。さっそく長女をパジャマのまま布団ごと簀巻きにして、彼女の着替え一式が入ったカバンとともに、DOさん宅に送り届ける。脇に抱えて走っている途中で、流石に寒さで彼女の目も覚めてしまったが、DOさん宅に着くと、用意してくれていた敷布団に腰を下ろして、大人しくしてくれた。DOさんに頭を下げ、自宅に戻り、今度は妻と、妻の身の回りのもの一式をもって、車に走る。
折からの雪と寒さで、道路は凍結していたが、時間が時間だけに交通量もなく、また雪国仕様の車のため、多少の凍結ではビクともしない。5分ほどで病院に到着し、救急受付から産婦人科に入った。
時刻は午前2時過ぎ。6畳ほどの広さの検査室に通される。妻は多少不定期に訪れる陣痛の波に苦しんでいた。看護婦が現れて妻の容態をみる。子宮口を測ると、まだ4cmほどしか開いていないということで、分娩室で暫く休むことになった。
日本の一般的な病院とは異なり、米国では陣痛室と分娩室が一緒になっている。広々とした完全な個室で、患者の緊張を和らげるためか、病院的な無機質な内装ではなく木材を多用した温かみのある内装で、テレビやステレオがあり、バストイレも完備である。ここでまた、看護婦の検査を受けた後、担当医の紹介などを経て、無痛分娩のための麻酔の投与に入る。長女のときはまったくの自然分娩であったが、米国の無痛分娩は体力の回復も早くて良いと妻が勧められたようで、この方法を選択していた。最初は、点滴のようなかたちで、静脈から比較的緩い麻酔薬を投与していく。無痛分娩そのもののための麻酔は背中(脊椎?)に注入するが、これがとんでもなく痛いらしく、この麻酔のための麻酔を投与することになる。点滴液のような注射液のバッグを二袋投与し終えた頃に、耳にピアスをつけた男性の麻酔医師が来て、酷い頭痛やら何やら、ひとしきり副作用の警告をして、それに承諾したというサインを求めてくる。サインをすると、今度は自分と看護婦だけでやるから、部屋から出て行け、という。抵抗も出来ないので、一旦部屋を外し、待合で睡魔と格闘し、部屋に戻ると妻の背中から注射液の管が延びていた。時刻は4時前。そのまま子宮口が開くまで、仮眠でもするように、と言われて、部屋の照明が消える。
午前5時半頃、陣痛が酷くなってきたようだ。看護婦を呼ぶと、こちらには何も言わず、
"She is ready"
と部屋の外にコールしている。
いよいよのようだ。
看護婦二人と、一度自己紹介された女性の執刀医が現れた。
暫く間をおいて、妻は出産の体勢をとらされる。日本で長女を出産した際は、足はベッドに附属の金具で固定されていたが、ここでは妻の片側の足をお前が持て、といわれる。流石に抵抗があり、固辞すると、妻が自分で膝裏を支えて、看護婦二人が左右それぞれから支えるかたちになった。
そしてそのまま出産に入る。私は、なすすべもなく、妻の枕元にいるだけである。日本だと、手を握ったり、役にも立たないがそれらしいことができるが、ここでは妻の両手は多忙で、そんな余裕はない。
陣痛の波にあわせて息む。3回目くらいで、胎児がほぼ出口に到達する。4回目、半身が出ている。生々しい光景が目の前で繰り広げられ、妻には失礼ながらも、目を覆ってしまう。そして、5回目、無事赤ん坊が取り上げられ、へその緒が着いたまま、妻の腹の上に載せられた。
6時18分、次女が生まれた瞬間であった。
依然、看護婦や医師は忙しそうに動いている。
感動する暇もなく、私にも鋏が手渡され、へその緒を切れという。これは噂に聞いていたが、とてもそんな恐ろしいことはできないので、出産前にも予め断っていた。しかし、やっぱりやれという。曰く、父親の責務(responsibility)である、と。
そこまで言われては引き下がれないので、名誉のテープカットをやる。当たり前だが、肉切りバサミで肉を切る感覚に近い。なんともいえない、生理的抵抗感を感じる。
カット後、赤ん坊はタオルに巻かれ、帽子を着せられて、"All set"(一丁あがり)と声がかかった。産湯につかるとか、そういう感覚はないようである。
長女のときに比べると、随分と大きい気がした。身体がしっかりしている。頭もそれほど長くなっていない(長女はコーンヘッドであった)。目はまだほとんど閉じていて良くわからないが、鼻は高そうである。顔は真っ赤で、文字通り赤ん坊だ。とにかく五体満足に生まれてくれて、ほっとする。まだ、かわいいとか、そういう感情をもつ段階に至っていない。
看護婦が妻の胸から赤ん坊を取り上げて体重計に載せる。3350グラム、やはりちょっと大きめか。
病院にはパソコンとウェブカメラを持参していた。大阪にある私の実家と、岐阜にある妻の実家、それぞれ順にスカイプで繋ぎ、生まれたばかりの赤ん坊の映像を送る。もちろん直接会うのが一番いいのだが、それでも技術の力に一同感謝する。
医師は、まだ仕事を続けている。胎盤を取り出し、局部を縫合する。
とても見ていられないので目を背けつつ、左目の視界の端でちょっと捉えている。胎盤が、トレーに置かれている。
「プレゼンターをどうするか」と医師が突然私に訊いてきた。
何のことかわからず、訊きなおすと、同じセリフをもう一度言われた。
話が飛ぶが、この日は午後にコミュニケーションのクラスで、Team Projectのプレゼンが予定されていた。そのことかと思い(今思えばそんなはずはないのだが)、
「自分としてもできるように努力はするが、自分が行けなくても、チームメートがかわりにやってくれるように頼んである」
と答えると、お前は阿呆か、という顔をして、こっちをみている。
その瞬間、Presenterとは胎盤を意味するのだ、と気づき、顔を赤くしながら、処分してください、と答えた。
恥ずかしさを紛らわせるために、普通はどうするのだ、と訊いてみた。持ってかえって庭に埋め、そこに記念の植樹をしたり、あるいは食べたりする人もあるらしい。どちらも願い下げなので、やはり処分してください、と再度頼む。
一通りの片づけが終わり、出産作業は一段落。ちょうど夜明けの時間となり、分娩室の窓からは朝焼けの空が見え、その下のハイウェイを往来する自動車の量も増えてきた。
小休止の後、赤ん坊は新生児室に移され、妻はRecovery Roomと呼ばれる産後用の病室に移る。
こちらも落ち着いた個室で、快適に過ごすことができそうだった。カーテンを開けると、外はかなり明るくなっていた。ボストンの北部から続く幹線道路がみえる。遠いところで妻も出産したものだ、という感慨が、改めて湧き上がってくる。
二人で病院から出される朝食(豊富なメニューから組み合わせることができ、思ったよりイケる)を食べ、役所に届ける書類などをもらって、妻と一旦離れて自宅に帰る。
自宅に戻ったのは、9時半ごろであった。
DOさん宅に預けた長女の様子が気になり、電話をしてみると、まだ寝ているという。奥さんの話では、深夜2時に預けた後、暫く眠れなかったようで、4時ごろにやっと眠ったらしい。ただ、眠れない間も泣きも暴れもせず、大人しくしていたとのこと。本当であれば、子供ながらに状況を何となく察していたのだろうか。午後の授業があるという話が妻からいっていたようで、このまま午後まで預かりますよ、と奥さんが申し出てくださった。ご厚意に甘えることにする。
多少部屋を片付けたりしてから、親族やら友人やらに、生まれたばかりの娘の写真を添えて、報告のメールを送る。こういうことは、一刻も早く、多くの人に知って欲しいものだ。
その後2時間ほど仮眠し、簡単に昼食を済ませて、学校に行く。
一部のクラスメートの間では、午前中私がまったく姿を見せなかったことから、遂にあいつは子供の出産が訪れたのか、という話になっていたようで、教室に私が顔を出すと、驚きと祝福の声が寄せられた。何となく、予定(?)では、授業中に妻から陣痛開始を告げる電話がかかってきて、慌てて早退し、その背中からクラスメートの拍手が浴びせられる、というシーンを思い描いていたのだが、何にせよ祝福してもらえるのは嬉しいことだ。ラテン系のクラスメートは、ハグをして祝福してくれた。
予定されていたTeam Projectのプレゼンは、それなりに上手くいった。睡眠不足でプレゼンをするのは、仕事上慣れている。
自分の発表が終わったところで、チームメートや教授から、早く家族のところに行ってやれ、と背中を押されて、あっさりと早退。犬が小便をしに来たような短時間滞在で、多少恥ずかしかった。
4時ごろ、自宅に戻り、長女を迎えにいく。
DOさんのお宅で、長女は同家の食卓に出されたオヤツを食べていた。父親の顔をみても、動じる様子はない。奥さんによると、朝から同家の男の子のオモチャで遊び、食事をいただいて、機嫌よく過ごしていたらしい。オヤツを食べ終え、「帰ろうか」と声をかけると、「うん」と言って上着をとり、靴を履きに来る。身支度を整え、挨拶を促すと、奥さんに向かって「あーたーま(ありがとうございます、のつもり)」と言って頭を下げた。あまりの健気さに涙が出そうになる。
二人で一旦自宅に戻った後、再び病院に行く。
姉妹の、初対面である。
ベッドの赤ん坊を指して、「赤ちゃんが生まれたよ、妹だよ」と説明すると、暫く不思議そうに見ていたが、やがて指をさして「ベイビー」と呼んだ。目の前の物体を、認識したようである。
妻と顔を見合わせて笑った。幸せな瞬間だった。
暫く病室で過ごし、皆で夕食を食べて、長女と私は自宅に戻る。帰り際、長女が母親と離れがたくて泣くかと
思ったが、バイバイ、と言って素直に病室を後にした。我が子ながら、こんなに良い子だとは知らなかった。姉の自覚か?
なお、次女は「遙香(はるか)」と名づけた。
遙かな可能性への期待と、日本から遙か遠くの地で生まれたという意味をこめた名前である。
Hの音がガイジンに発音しにくいかとも思ったが、結局最後までベターな案が出なかった。ミドルネームも、何だか妙なのでやめた。長女のときもそうだったが、命名してすぐは、まだその名前に慣れない。これから、何万回とその名を呼んで、笑ったり、喜んだり、怒ったり、悲しんだりするうちに、良い名前だと思えれば良いと願う。
皆様、今日はどうもお疲れ様でした。
MITスローン校でのMBA、プライベート・エクイティでのインターン、アパレル会社SloanGearの経営、そして米国での生活から、何を感じ、何を学ぶのかー。
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