わずか5週間の日本滞在であるが、かつてお世話になった方々や友人など、様々な人々と会う貴重な機会になっている。
中でも、かつて携わった3つのコンサルティング・プロジェクトの顧客企業側メンバー・幹部とお会いすることができたのは、非常に幸運であり、ありがたかった。
皆、こちらの勝手なスケジュールにあわせようと、週末を含めて時間をとってくださり、ありがたい限りである。
会社の規模も業界も全く異なる3つの会社であるが、共通していることは皆PEファンドに投資された企業であり、我々はそのPEファンドに雇われるかたちで会社に入っていったこと。そして大幅な業績改善のための戦略・計画をおよそ3ヶ月をかけて策定し、現在その実行に取り組んでおられることである。
その経緯から、いずれの場合もプロジェクト開始当初は会社側のプロジェクトメンバーや幹部の我々に対する心象も芳しくはなく、乾いた空気が漂っていた。が、プロジェクトを通じて新たな事実が発見されたり、危機感が共有されたり、いくつかの小さな成功事例が出始めたりするなかで、信頼関係が築かれていった。プロジェクトが行われた時期によって大小の差はあるが、構造不況の業界にあって唯一増収増益を達成したり、誰も信じなかったような大幅なコスト削減を実現させたりするなど、今では各社ともプロジェクトの成果が現れている。プロジェクトに携わったメンバーや幹部の方々も、昇進、栄転されたり、長年ストップしていたボーナスが復活したりといった朗報が多く、我々にとっても嬉しいことこの上ない。
酒を飲んでいる間も、自然、プロジェクトに関する話題がほとんどである。まだプロジェクト終了から余り日が経っていない会社の幹部からは、これからさらにどう加速していくか、想定と違ったところについてどう修正していくかについて相談され、またプロジェクトが一段落して大きな成果をあげた会社の旧プロジェクトメンバーからは、次の一手を相談された。多かれ少なかれ改革に懐疑的・消極的だった人々が、成果をあげ、昇進し、次の改革を先頭に立って考えようとされている姿をみていると、本当にコンサルティングをやっていてよかった、と思う。
一方で、彼ら会社のメンバーと、彼ら会社に投資したPEファンドとの関係は、なかなか温まっているようにみえない。彼らが倒産や乗っ取りの危機を脱し、大きな変革を遂げ、企業体力を回復できたのは、PEファンドが投資してくれたお蔭だ、というのは、一面の事実である。しかしながらPEファンドのプロフェッショナルたちが彼ら投資先企業側の人間と個人的な信頼関係を築き、こうした議論と酒を交わすということは起きていないらしい。やはり、投資先企業の側に割り切れない心理的なシコリや遠慮があって、PEファンドの人間とそこまで近しくなることはできず、その点では間に立っているコンサルタントの方が、そうした人間的な信頼関係の形成やそれに立脚した変革のリードができる、ということなのだろうか。
せっかくの機会なので、直接お会いしたかつてのプロジェクトメンバーや会社幹部の方々に聞いてみた。すると、「確かに入り口のところでは、コンサルタントさんとの方が言いたいことも言えるし、関係が築きやすいが、結局は立場ではなくて人間対人間の話であって、我々は貴方がコンサルタントだったから信頼しているというよりは、一緒に親身になって我々のことを考えてくれて、力になってくれたから信頼しているだけだ」というのが大方の答えであった。勿論、多分にお世辞も入っているだろうし、信頼関係ができてしまった今だからそう言えるのかもしれないが、仮にこれがある程度本当だとすると、今のPEファンドのプロフェッショナルはまだまだ企業の変革という点では弱く、私がユニークな貢献のできる場所があるのではないか、とも思えた。
いずれにせよ、多くの意欲・意識のある方々に良い影響を及ぼし、彼らの力になれるような仕事を、今後もしていきたいと、改めて感じる機会となった。
- 市場の開拓
- オフィス運営の安定化
- 撤退時のリスク管理
スティールパートナーズや、以前世間を騒がせた村上ファンドのように、世間から「悪者」の烙印を押されてしまうことは、慎重に避けなければならない。日本では、「カネをもっているヤツは悪いヤツ」というような風潮がまだまだ強いように感じる。その意味では、PEファームは何もしなくても「悪いヤツ」であり、よほど慎重に世の中に出て行かないと、受け入れられない。
一方で、PEファームによる投資をまだまだどこか遠い世界の話として見聞きしている日本企業の経営者や識者を啓蒙するためには、ある程度耳目を集める投資をしなければならない。ダイエーやカネボウへの投資はその代表例だろう。つまり、リスクが大きかったり、大きなリターンを見込むことが必ずしも容易でない案件でも、マーケティング的な観点から投資の意義を見出す、という場合も多いようである。
また、どんなビジネスでも新しい市場で新しく業務を立ち上げるのに求められることだろうが、人材を発掘・採用・教育し、自社の組織を活性化させなければならない。いわゆる「鶏と卵」の議論であるが、投資のため人材獲得・オフィス運営が必要である反面、人材の獲得・育成・組織活性化のためには投資が必要である。投資とそれに伴う作業が継続的に行われていれば、人材も育つし、組織は活力をもつ。投資である以上、市場の浮き沈みの影響は受けざるを得ないし、現在のように市場の環境が思わしくない場合には、投資を控えて大人しくしていることが下手な投資をするよりも正解かもしれない。しかしながら、上記のような組織上の理由から、「今年は何も投資しない」という方針を打ち出すことは、極めて難しい。また、国内における同産業の歴史が浅いため、即戦力となりうる人材の層が市場全体に薄く、どのファームも基本的にはコンサルティングファームや投資銀行から採用した人材を2-3年教育して一人前にしなければならない。この時間と労力のかかる作業を、市場の浮沈とは別の時間軸で進めていかなければならないため、場面場面ではそのときの人材需要との間にギャップが生じてしまう。そのため、オフィスレベルの判断としては、市場環境の良くないときにでも、何らかのディールをやったほうが良い、ということになるようである。もっとも、投資規模を抑えたり、いろいろな「保険」を付けるのだろうが。
最後に、新興市場であるがゆえに、誰も日本のPE投資が今後どうなるのか、確たることを言える人はいない。もちろん、みなこの市場にチャンスがあると思うから、欧米系ファームが現地法人を設けて進出してきたり、国内系ファームが立ち上げられたりするのだが、うまくいかなかったときのことも考えておかなくてはならない。ファームにとっては、例えばファンドの組成の仕方にそれが現れる。グローバルファームの多く(恐らくカーライルを除くすべて)は、日本向け投資だけで独立したファンドを組成せず、グローバルなファンドの一部を使って日本に投資している。従って、日本での投資が思うように進まなかった場合、ファンド運営の観点からは、すぐに事務所をたたんでしまうこともできる。一方で、個人レベルでこれがどういう意味をもつかというと、限られた(かもしれない)期間の中でいかに実績をあげるかが、直接的な報酬獲得のため以上に、後々のキャリア形成のために重要になる、ということだろう。本質的には、PE投資における「実績」とは、投資案件の経済的リターンが(他社への売却や株式公開を通じて)実現することを意味するはずであるが、これには5年前後の年月がかかるため、代わりに投資したこと自体が「実績」とされる。従って、多少のリスクに目を瞑ってでも、「投資したい」というインセンティブが働きかねない。
こうした多様な思惑が錯綜し、意思決定が複雑になるのは、事業をしていれば当たり前のことだろう。かつてコンサルティングファームに移る前に働いていた日本の事業会社もそうであったし、コンサルティングに入った顧客企業も例外なくそうであった。むしろ「正しいことをしていれば/言っていればおカネがもらえる」という世界の方が極めて例外的、というべきかもしれない。しかしながら、そういう例外的な世界の方が精神的には安定するし、少なくとも自分は複雑な思惑が絡み合うなかで権謀術数を尽くして目的を達成する、というような器用な人間ではないように思う。一方で、権謀術数こそビジネス(あるいは仕事一般)に欠くべからざる要素の一つであって、それに不得手なようではまだまだガキだ、という気もする(特に最近また読んでいる司馬遼太郎の影響で、そういう思いも強い)。
自分が得手と思う世界で道を究めるべきか、自分の考えるビジネスマンとして必要な要素を身に着けるために不得手な道に敢えて行くか-。
難しい選択である。
なかなか個別案件のことは書けないが、いろいろと考えさせられる日々である。
投資を受ける会社の立場に立った場合、PEファームの投資を受ける理由は、会社側の意図と無関係な敵対的買収や投資家間の売買を除くと、以下の6つに分類されると思う。
①会社再建
②創業者およびその一族による事業継承
③大企業の一部事業切り離し
④敵対的買収への対抗(ホワイトナイト)
⑤長期的な成長戦略のための経営の自由度確保
⑥他社買収のためのパートナーシップ
①は、今年はまだ記憶にないが、昨年頃までの日本市場でよくみられた形態である。代表的なところでは、長銀(新生銀行)、東京スター銀行、(最近話題の)すかいらーく、フジタなどがこれに該当する。その他、ダイエー、カネボウなど、産業再生機構が関係した案件も、機構の名前が指すとおり、このカテゴリーに分類されるだろう。
これは、バブル崩壊以降、放漫経営が祟って二進も三進もいかなくなった企業に対して、あっさり倒産させてしまうと社会的・金融的インパクトが大きい場合に、逃げ道としてファンドが活用されたパターンで、90年代後半から日本に投資ファンドが入ってくる際の大きな切り口となった。
そういう意味では、歴史の浅い日本のPE投資においては最も「伝統的」な投資パターンであるが、その顛末をみている限り、本質的な意味でファンドが企業の「再生」に貢献し、またそれがファンドにとっての主たる収益源になった例というのは、なかなかお目にかかれない。多くの場合、「倒産させては元も子もない」と思っている関係者や市場の素人っぷりに付け込んで、破格の保証を国につけさせたり、あきれるほどの債権放棄を銀行にさせたり、驚くような条件の優先株を発行させたりと、要するに企業の再生如何に関わらず絶対にファンドが儲かる仕組みの上に投資が実行されている。世に言う、「ハゲタカ」型投資である。おいしい時代に日本の国や金融機関がカモにされたとしか言いようがなく、またたちの悪いことにそうしたファンドには国や金融機関のエラい人が一枚噛んでいたりして、確信犯的なニオイのする場合も少なくない。最近では、こうしたおいしい案件が少なくなってきたこともあり、特に産業再生機構絡みの案件を引き受けた国内系ファンドなどは、文字通り投資先企業の再生・価値向上による投資先とファンドの共存共栄を謳っているが、それで本当に企業が再生してファンドに十分なリターンが出るかどうかの結論をみるには、あと数年待たなければならないだろう。
②は、創業家が経営権も握っている(所有と経営が一致している)上場企業の多い日本に特徴的な形態でもある。オーナー社長が、確実に一族に会社を継承するために一旦非公開化して意に沿わない株主を排除してしまうパターンや、逆に創業者一族に事業の後継者がおらず、現経営陣や新たな経営者に所有権ごと継承してしまいたい場合(中小企業に多い)などがある。この場合も、投資を受ける理由が企業の本質的な成長のための戦略的理由でないため、ファンド側としては慎重に案件を見極めないと、企業価値が向上せずリターンがでないリスクが付きまとう。
③は、産業革命以来日本経済の発展を牽引しつつ膨張してきた巨大企業グループが、国際競争の激化とバブル崩壊の影響で「選択と集中」を迫られ、増加してきたパターン。特に製造業では、売却側の企業にとっては非戦略部門でも、特色のある固有技術をもっていたり、ニッチ分野での強固なシェアを有していたりする場合も多く、国内外の投資ファンドが日本で最も期待する形態の一つと言えるだろう。欠点としては、そうした有望形態であるが故にファンドからの注目度も高く、どうしてもオークション(競売)になって買収価格が吊り上がる場合が多いことだろう。どんな案件でも、馬鹿げた値段で買うと、リターンがでない。
④は、ある意味でもっとも受身の、非戦略的な行動と言えるかもしれない。多くの場合、株主価値軽視の経営姿勢のために株価が極端に下がっていて、乗っ取り屋と呼ばれるようなバイアウト・ファンドや、ライブドアのような新興勢力に狙われ、慌てて「もうちょっとマシ」な買い手を探す、というパターンである。ファンドではないが、ドンキホーテに狙われたオリジン東秀が「ドンキに買われるくらいなら」とイオンに駆け込んだ例のように、結果的にシナジーが期待できる企業買収に至る例もあるが、ホワイトナイトがファンドの場合は、結局はリターンの追及が性なので、最初の乗っ取り屋がやろうとしたことに近い結果になりがちであろう。
一方、⑤と⑥は、上記のような「負の遺産」に端を発する例とは異なり、むしろ前向き企業の成長戦略のために積極的にファンドを活用するパターンである。
⑤は、短期的な株価の下落や、大きな投資(設備投資や研究開発、企業買収)に伴う収益悪化を伴いそうな抜本的かつ中長期的な成長戦略を採るために、短期的なリターンを求める株主から自由になろう、というものである。外国人株主の比率が高まり、日本人株主も「モノを言う」ようになって、益々株主の短期利益志向が強まる中、こうした中長期成長戦略に株主から「ノー」を突きつけられる可能性は高まっている。また株価が下がれば、④のパターンで議論したような乗っ取り屋に蚕食されるリスクにも晒される。ならば、と非公開化に踏み切る企業は、ここ5年ほどの間にいくつかの例がみられた。そして自社だけでは非公開化のノウハウがない、などの場合に、ファンドが入る可能性もある。米国ではそれなりにあるパターンながら、これまで日本でこのパターンの案件が行われた記憶はない。
最後に、⑥であるが、特に成熟産業で国内での成長が見込めず、一方でキャッシュがそれなりにある場合などで、ファンドのネットワークとノウハウを借りて海外プレイヤーの買収を仕掛けよう、という例などが該当する。例えば製鉄業では、ミタルが野心的な買収を繰り広げる中、新日鉄もブラジルの大手プレイヤーに出資をしたが、わずか1.7%の議決権を握ったに過ぎない。これをファンドと手を組むことで、一気に大きな範囲の議決権を取ってしまおう、というパターンである。
要するに日本では、①~④に挙げたような、「負の遺産」の清算という文脈の中での投資が、少なくともこれまでのところはほとんどであった。従って、案件としても玉石混交、というよりはむしろ「石」の方が多かったであろうから、リターンを出すためには、競争原理が働かない環境下で、良くわかっていない、あるいは切羽詰った人たちを相手に法外な条件で買収を成立させて、市場が勃興してきたのをみて参入してきた他のファンドや外資系企業、新興企業に売り抜ける、というパターンが主とならざるを得なかっただろうし、実際それが多かった。
今後はどうか。
良いニュースは、日本企業も少しずつファンドの使い方が旨くなり、⑤⑥のような案件や、そこまで行かなくともより積極的なかたちでの③のような案件が出てきていることだろう。
一方で悪いニュースは、案件の増加を上回るペースでファンドが数・金額ともに増えすぎて、価格競争が過激化していること。また金融機関の業績悪化にともなうクレジットの縮小で投資に伴う借入が難しくなり、ファンドとしてのレバレッジがきかず、リターンが減る、ないしはそもそも投資ができない、ということが挙げられるだろう。
つまり、数年前のようにおいしい仕事ではない、ということである。
恐らくこれは、ちょっと齧った程度のインターンでも気づくことなので、日本でこの業界に関わっている人であれば、多くが気づいていることだと思う。
問題は、気づいてからどうするか、ということ。
トヨタが燃料高に伴う需要縮退を踏まえて生産調整に踏み切ったように、市場環境が思わしくないから投資の手を緩めます、というふうにはなかなかいかないのが、この業界の辛いところではないか、と見える。
もともと、グローバルファンドの日本事務所であれば、これまで年間1-2件の投資を実行していれば立派なものなので、これを減らすとなると、1年間投資をまったくしない、ということになる。これは、経営的にも組織運営的にもなかなかできるものではない。ファンドというのは、どんなに環境が悪くても、投資せざるを得ない。投資すれば損をするかもしれないし、儲かるかもしれないが、投資しなければ絶対に儲けがでないからである。また、組織のスキルやモラル向上のためにも、実際の投資をある程度行っていることは必要条件だろう。せいぜいできることと言えば、投資案件の最低規模を小さくして間口を広げ、より広いスコープの中でマシなものを選ぶ、というくらいだと思われる。
更に問題を複雑化しているのが、ファンドで暮らす人々のインセンティブのあり方。案件からの実際のリターンではなく、いくら・何件投資をしたかが評価の重要なウェイトを占めているファーム・個人が存在するので、環境が良くないことは知りつつも、何でも取りに行ってしまう。
こうしてみてくると、PEファームの日本経済における意義はなくならないし、まだまだこれから必要とされる存在であるのは間違いなさそうである反面、これまでのやり方で濡れ手で粟をとっていたような人々は、今後1-2年のうちに市場から退場させられることだろう。
そしてファームとそこに関わる人々の数が適正化され、金融機関のキャパシティーも戻ってくると、また投資のチャンスが再生してくるのだと思われる。
それが何年先になるのかは読みきれないが、少なくともあと1年は、ビジネススクールで世の中から退場しているのが、結果的に良さそうである。
会津路を、通り抜けてみた。
ふと、北に行きたくなったのが、理由といえば理由だった。日本の夏の一つの週末も、すぐ米国に戻ると思うと貴重なものに感じられ、その気持ちが身体を急き立てたのかもしれない。かつての記憶で、鉄道で郡山から会津若松を経て奥会津を縫い、越後湯沢の方に下りてくる、というコースなら、一日で会津路を抜けて帰ってくることが頭にあった。鉄道の時刻を調べてみると、まだその記憶が有効であることはすぐにわかった。
朝7時過ぎに自宅を出て、東京駅から郡山まで新幹線に乗り、ローカル線で会津若松に向かう。観光客を集めようとときどきSLの走る閑線だが、夏休みの親子連れなどでそれなりに賑わっていた。
走り始めるとすぐに、単線の線路は緑に包まれるようになった。郡山盆地から猪苗代湖畔を経て会津盆地に至る磐越の道はそれ全体が連続的な盆地のようで、常に大小の田園風景が目を離れることがない。途中、磐梯熱海や中山宿のあたりで両側に山が迫ってくるのがもっとも狭隘なくらいで、それすらも大らかなものである。
列車は1時間と少しで会津若松駅に入った。
古くは当地の豪族蘆名氏の拠点として開かれ、戦国の頃は奥州最大の都市であったという。伊達政宗に征服されて同氏の拠点となったが、豊臣秀吉の世となってから近江の蒲生氏郷が移封されてきた。伊達氏の勢力をそぎ、あわせて秀吉も恐れた才覚の持ち主である蒲生氏郷を畿内から遠ざけるという意図であったと、司馬遼太郎か誰かの説で読んだ記憶がある。ともかく、氏郷の町造りの才覚と彼が率いてきた近江商人が町を更に発展させたようで、町には今でも氏郷を偲ぶ史跡が大切に守られている。
今では人口13万人弱の東北の一地方都市に過ぎず、区画の整えられた市街地には、中心部でも人の往来があまりみられない。タクシーの運転手氏にきいても、景気は昨年秋頃から一向に好転しないという。「不動産や建設業がダメです」という彼の言葉のとおり、町には土木・建築工事の類がまったくみられない。氏郷が育て上げた商業と手工業の町も、高度経済成長期に日本の地方都市の経済パターンに染め上げられたようで、工事がないと経済がもたないのだろう。
運転手氏に案内してもらった馬肉専門店で昼食をとった。馬肉で有名な若松でも珍しい、馬肉の専門店だという。確かに、桜寿司、刺身、桜カツ、桜唐揚げ、桜鍋と、馬肉料理ばかりがメニューに並んでいた。
カウンターで刺身を喰いながら、食用の馬がどこにいるのかと何気なく聞いてみたら、正直な親父さんは、「北海道かカナダだねえ」と白状された。
食後、駅に戻り、再び鉄道に乗る。
只見線というローカル線で、奥会津を抜けて越後は魚沼の方に向かう。只見川に沿って奥会津を縦断する無電化路線だが、一日に3往復しかないという、「筋金入り」のマイナー路線である。二両編成のディーゼル列車は、乗客のおそらく半分以上が、いわゆる「鉄道マニア」と思しき方々。列車がホームに滑り込んできたときから、忙しそうに写真を撮っている。
列車は、そんなことは百も承知、というように、定刻にゆっくりと走り始めた。稲の葉と畦の青々とした風景が美しい夏の会津盆地を、そっと走り抜ける。会津の田園風景は、思いのほか広々として、豊かであった。下品な看板や軽薄な商業施設も少なく、映画のような日本の田園が広がる。
1時間足らずで盆地の南端に至った列車は、やがて樹木の陰に吸い込まれるように、只見川沿いに奥会津へと入っていく。車内に、冷房機はついていない。天井にぶら下がった扇風機と開け放たれた窓から入ってくる風で涼をとるようになっている。ときおり入ってくる草の匂いが、なんとなく嬉しい。
奥会津は、こういっては失礼だが、なにか世俗から忘れ去られたような一帯である。谷に沿った斜面を懸命に削って得た狭い土地に、ひっそりとした集落と田畑が置かれている。会津漆器のもととなる檜をとったり、建設資材を掘り出したりする産業もたまにみられるが、それらも只見川がダム湖にかわるころにはすっかり姿を消す。鉄路はダム湖の湖畔をかすめ、トンネルで山を貫き、鉄橋で渓谷を渡って、奥へ奥へと入ってゆく。窓からの空気が、ますます心地良くなる。源平から戦国までのどこかの戦いで敗れた武士が落ちてきたような集落がときどき姿をみせ、そこに駅が置かれている。鉄道の貢献がどの程度かはわからないが、真っ先に過疎化が進みそうなこの辺鄙な土地ながら、集落にはそれなりに活気があり、かつ興をそぐチェーン店の看板も見られず、余所者が眺めるには実に美しい景観となっている。夏の初めにイタリアを旅行したとき、なぜ彼の地はあれほどまで美しく、日本はそうでもないのだろうと恨めしくも思ったが、これを見ると日本もまだまだ捨てたものではない、とあっさり考えを改めてしまう。要するに、建設工事の資材や重機に乏しい昔は、自ずから自然に調和した美しい色彩と形態の集落ができて、それから余計な経済的余裕がそれを壊さなかった地域は、どこでも美しい景観が残っている、ということだろう。
会津若松を出てから3時間半ほどだったろうか、列車は只見駅に入る。
只見盆地という、四方を山に囲まれた伊賀の隠れ里のようなささやかな平地の端に、ひっそりと駅舎が立っている。山を背景に立つ列車の姿は、確かにマニアならずとも写真を撮りたくなるような絵である。
奥会津の最深部であろうこの町は、なんともいえない素朴な美しさで、子供の頃に見た(つまり今ほど脚光を浴びる前の)湯布院のような雰囲気すら感じられた。温泉もあるらしい。また一度ゆっくりと訪れてみたい。
只見盆地から先、線路は会津を抜け、越後に入る。30分ほど、まったく人家をみない一帯を抜けるあたりは、「国越え」という言葉が頭に浮かぶ。
その後はほどなく、終点の小出に至る。
さすがに尻と腰が痛んだが、まったく退屈のしない車窓の旅であった。
メーカーの原価低減や、研究開発組織の改革など、コンサルティングをする中で、技術的知見がないと踏み込んだ提案や実行支援ができない場合がある。そんなときにアドバイザーあるいはコンサルタントとしてプロジェクトに参画いただいていたのがこの会社、特に社長のOさんとMさん。お二人を含むソニー出身のエンジニアの方々が中心となって立ち上げた同社、売上の中心は受託設計とエンジニアの派遣であるが、技術的知見を要する課題についての彼らの洞察力は、我々の心強い味方であった。仕事が大好きでハードワークを辞さない皆さんなので、挨拶だけして失礼するつもりであったが、Mさんとは、せっかくなので一杯、ということになった。
ビールのグラスを合わせ、しばらく昔話をしたあと、話題は日本の製造業についての憂いへと広がっていった。
我々に協力するかたちでコンサルティングプロジェクトをいくつか手がけるうちに、そうした仕事についての自信を深めていったMさんだが、一方でソニーの中堅エンジニアから飛び出した彼がいろいろなメーカーで価値向上に貢献できるという事実は、日本製造業の軟弱化の証左とも映るらしい。
まず指摘されたのは、ベテランの知恵が十分に蓄積・活用・伝承されていないということ。「五月蝿いオヤジがいなくなった」とはよく聞く話ではあるが、それは語るべき知識や技能をもったオヤジがいなくなったのではなく、オヤジが語らなくなった、あるいは周りがそれを聞かなくなっただけなのではないか、と彼はみる。現に、彼の会社では、製造業の各方面で一家言もつ定年オヤジを集めて、エキスパート部隊にしている。「オジサンズ11」などと呼ばれる彼らは、相談すると「それはさぁ、」と生き生きと語りだすし、分析してほしい製品や図面を渡すと、目を輝かせて寝食を忘れるほど調査に没頭するらしい。技術が好きでしようがなく、その好奇心や自分の腕を何かにぶつけたくてうずうずしているのだろう。Mさんたちは、本来産業界の中で自律的に行われるべきそうしたオヤジたちの知恵の活用を、外部エキスパートとして触媒しているかたちになる。
なぜそうしたベテランの知恵が活かされなくなったのか。
この答えの一つとして、MさんはIT化をあげた。
ソニーで三次元CADなどのITツールをいち早く導入した経験をもつ彼らがいうのは一見自己矛盾にも聞こえるが、もちろん彼はシステムを導入すること自体を否定しているのではない。彼が問題視しているのは、SAPなどの外部ベンダーが作ったパッケージソフトの安易な導入と、それにあわせた仕事のあり方だという。
企業の基幹システムにしても、設計ツールにしても、かつては各メーカーが自前で開発していた。そこにベテランの知恵をそこに結晶させることで、暗示的な知恵の明示化につながり、メーカーごとに知恵を振り絞って良いシステムを作る過程も、教育の場になったという。しかしそうした自前システムを半ば否定するかたちで安易なパッケージソフトの導入がなされると、とたんにエンジニアが思考停止してしまった。自分で考える、知恵を集める、という作業が吹き飛び、むしろパッケージソフトに与えられた枠の中で考えるという事態にまで至っている場合も少なくないらしい。
また、いわゆる「トヨタ生産方式」に代表されるような、生産システムの「教科書」が表面的に枠組みとして絶対視されたことも問題だという。例えばトヨタ生産方式の教えの一つは、ムダの排除にある。ムダの代表例は在庫である。しかし、工場の中の在庫をなくす、この一点が絶対的な自己目的となると、そのために流通側に在庫を膨張させたり、販売機会を逸したりする。トヨタ自身は、極論すれば「売れ残るくらいなら品切れになる方が良い(トヨタ井川専務)」という信念があるので良いのかもしれないが、例えば需要の波の大きい業界では、一時の特需を逃すと、致命的なダメージを被ることになる。そうした、自身の会社や業界の特性を踏まえた定説の検証や修正が、禁忌とされて長年放置されている例が多いという。NPS研究会、という異業種交流会があるが、「ナンバーワンの「経営効率」を目指す世界で唯一の一業種一社の製造業集団」をうたっている同会の会員企業に経営上の問題を抱える企業が少なくないのも、そうしたある定説の絶対視から来るのかもしれない。
同時に、NPS研究会の会員企業に問題を抱える先が多い、ということからは、いわゆる「業界トップ」企業の慢心ということも指摘された。慢心、と言われると顔を真っ赤にして怒る経営者が多いだろうが、競合他社製品の研究の怠り、サプライヤーの固定化、営業の不活性化、談合体質化など、業界トップに立つということは、あらゆる部分にわたって企業を弛緩させるリスクをもっている。
こうしてみてくると、共通していえるのは、好奇心だとか、「技を磨く」意識だとか、そうした現状を変えようという継続的な力の弱体化あるいは喪失が、企業や産業の力を弱めているといえるだろう。サラリーマン病、といってもいいかもしれない。結局これは、かなり日本に普遍的で、深刻な問題のようだ。
教育現場に目を移すと、さらに問題は深刻にみえる。Mさんには小学校5年生になる娘さんがいらっしゃるが、彼女の国語の宿題をみると、主語や目的語が省略された文学的文章の抜粋があって、「作者の言いたいことをまとめなさい」という課題が与えられていたそうだ。何十年と変わらない、日本の国語教育である。これは、とうてい論理的ではない日本語という語学に不可欠な、いわゆる行間を読む力、非明示的なものを汲み取る力を養うトレーニングであり、日本の企業社会で生きていくうえでも不可欠な力の養成である。しかし、最近は、答えがすぐにインターネットで検索できてしまう。これを「コピペ」して提出すれば、○がつく。少なくとも、×にはならない。こうして、ロジカルでもないし行間・空気も読めない、要するにコミュニケーションのできない日本人が生産されている。知恵の伝承、が再び定着するどころか、ますます減退していく気配が色濃くする。
ターゲット会社のコストを下げられる、経営改善の余地がある、というのは、PEファームにとっては「朗報」である。それだけ価値向上ができるからだ。
独力ではできない決断や、過去のしがらみの打破も、上記のような問題を解消する一助にはなるだろう。しかし、問題がもっと根深い、歴史的な変化のようなものであると思ったとき、何か他にもっと本質的な取組をしなければならないのではないか、という焦りのような気持ちにもなる。当面は答えもないので、具体的に自分の軌道を変えるところまでは至らないのだが…。
MITスローン校でのMBA、プライベート・エクイティでのインターン、アパレル会社SloanGearの経営、そして米国での生活から、何を感じ、何を学ぶのかー。
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