会津路を、通り抜けてみた。
ふと、北に行きたくなったのが、理由といえば理由だった。日本の夏の一つの週末も、すぐ米国に戻ると思うと貴重なものに感じられ、その気持ちが身体を急き立てたのかもしれない。かつての記憶で、鉄道で郡山から会津若松を経て奥会津を縫い、越後湯沢の方に下りてくる、というコースなら、一日で会津路を抜けて帰ってくることが頭にあった。鉄道の時刻を調べてみると、まだその記憶が有効であることはすぐにわかった。
朝7時過ぎに自宅を出て、東京駅から郡山まで新幹線に乗り、ローカル線で会津若松に向かう。観光客を集めようとときどきSLの走る閑線だが、夏休みの親子連れなどでそれなりに賑わっていた。
走り始めるとすぐに、単線の線路は緑に包まれるようになった。郡山盆地から猪苗代湖畔を経て会津盆地に至る磐越の道はそれ全体が連続的な盆地のようで、常に大小の田園風景が目を離れることがない。途中、磐梯熱海や中山宿のあたりで両側に山が迫ってくるのがもっとも狭隘なくらいで、それすらも大らかなものである。
列車は1時間と少しで会津若松駅に入った。
古くは当地の豪族蘆名氏の拠点として開かれ、戦国の頃は奥州最大の都市であったという。伊達政宗に征服されて同氏の拠点となったが、豊臣秀吉の世となってから近江の蒲生氏郷が移封されてきた。伊達氏の勢力をそぎ、あわせて秀吉も恐れた才覚の持ち主である蒲生氏郷を畿内から遠ざけるという意図であったと、司馬遼太郎か誰かの説で読んだ記憶がある。ともかく、氏郷の町造りの才覚と彼が率いてきた近江商人が町を更に発展させたようで、町には今でも氏郷を偲ぶ史跡が大切に守られている。
今では人口13万人弱の東北の一地方都市に過ぎず、区画の整えられた市街地には、中心部でも人の往来があまりみられない。タクシーの運転手氏にきいても、景気は昨年秋頃から一向に好転しないという。「不動産や建設業がダメです」という彼の言葉のとおり、町には土木・建築工事の類がまったくみられない。氏郷が育て上げた商業と手工業の町も、高度経済成長期に日本の地方都市の経済パターンに染め上げられたようで、工事がないと経済がもたないのだろう。
運転手氏に案内してもらった馬肉専門店で昼食をとった。馬肉で有名な若松でも珍しい、馬肉の専門店だという。確かに、桜寿司、刺身、桜カツ、桜唐揚げ、桜鍋と、馬肉料理ばかりがメニューに並んでいた。
カウンターで刺身を喰いながら、食用の馬がどこにいるのかと何気なく聞いてみたら、正直な親父さんは、「北海道かカナダだねえ」と白状された。
食後、駅に戻り、再び鉄道に乗る。
只見線というローカル線で、奥会津を抜けて越後は魚沼の方に向かう。只見川に沿って奥会津を縦断する無電化路線だが、一日に3往復しかないという、「筋金入り」のマイナー路線である。二両編成のディーゼル列車は、乗客のおそらく半分以上が、いわゆる「鉄道マニア」と思しき方々。列車がホームに滑り込んできたときから、忙しそうに写真を撮っている。
列車は、そんなことは百も承知、というように、定刻にゆっくりと走り始めた。稲の葉と畦の青々とした風景が美しい夏の会津盆地を、そっと走り抜ける。会津の田園風景は、思いのほか広々として、豊かであった。下品な看板や軽薄な商業施設も少なく、映画のような日本の田園が広がる。
1時間足らずで盆地の南端に至った列車は、やがて樹木の陰に吸い込まれるように、只見川沿いに奥会津へと入っていく。車内に、冷房機はついていない。天井にぶら下がった扇風機と開け放たれた窓から入ってくる風で涼をとるようになっている。ときおり入ってくる草の匂いが、なんとなく嬉しい。
奥会津は、こういっては失礼だが、なにか世俗から忘れ去られたような一帯である。谷に沿った斜面を懸命に削って得た狭い土地に、ひっそりとした集落と田畑が置かれている。会津漆器のもととなる檜をとったり、建設資材を掘り出したりする産業もたまにみられるが、それらも只見川がダム湖にかわるころにはすっかり姿を消す。鉄路はダム湖の湖畔をかすめ、トンネルで山を貫き、鉄橋で渓谷を渡って、奥へ奥へと入ってゆく。窓からの空気が、ますます心地良くなる。源平から戦国までのどこかの戦いで敗れた武士が落ちてきたような集落がときどき姿をみせ、そこに駅が置かれている。鉄道の貢献がどの程度かはわからないが、真っ先に過疎化が進みそうなこの辺鄙な土地ながら、集落にはそれなりに活気があり、かつ興をそぐチェーン店の看板も見られず、余所者が眺めるには実に美しい景観となっている。夏の初めにイタリアを旅行したとき、なぜ彼の地はあれほどまで美しく、日本はそうでもないのだろうと恨めしくも思ったが、これを見ると日本もまだまだ捨てたものではない、とあっさり考えを改めてしまう。要するに、建設工事の資材や重機に乏しい昔は、自ずから自然に調和した美しい色彩と形態の集落ができて、それから余計な経済的余裕がそれを壊さなかった地域は、どこでも美しい景観が残っている、ということだろう。
会津若松を出てから3時間半ほどだったろうか、列車は只見駅に入る。
只見盆地という、四方を山に囲まれた伊賀の隠れ里のようなささやかな平地の端に、ひっそりと駅舎が立っている。山を背景に立つ列車の姿は、確かにマニアならずとも写真を撮りたくなるような絵である。
奥会津の最深部であろうこの町は、なんともいえない素朴な美しさで、子供の頃に見た(つまり今ほど脚光を浴びる前の)湯布院のような雰囲気すら感じられた。温泉もあるらしい。また一度ゆっくりと訪れてみたい。
只見盆地から先、線路は会津を抜け、越後に入る。30分ほど、まったく人家をみない一帯を抜けるあたりは、「国越え」という言葉が頭に浮かぶ。
その後はほどなく、終点の小出に至る。
さすがに尻と腰が痛んだが、まったく退屈のしない車窓の旅であった。
MITスローン校でのMBA、プライベート・エクイティでのインターン、アパレル会社SloanGearの経営、そして米国での生活から、何を感じ、何を学ぶのかー。
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