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在る偏屈者による半年遅れのMBA留学日記、そして帰国後に思うこと
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朝から車で島をまわる。舗装されていない道が多く、しかもマニュアル車なので、運転はすべてSteve任せ。私は専ら地図をみる。彼は運転は私より上手いが方向音痴なので、ちょうど良い役割分担である(とはいっても、島にはそれほど沢山道があるわけではないが)。
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島の西端にあるハンガ・ロア(Hanga Roa)村を発し、荒波の打ちつける南海岸を東へと進む。このあたりのモアイは、全て16-17世紀のいわゆる「モアイ倒し戦争」*で倒されたままの姿で放置されている。モアイの目に宿る霊気を恐れてうつ伏せに倒されたものが多く、アフ(祭壇)から波を背にして丘の方に前のめりに倒れている。頭に載せられていたプカオといわれる装飾は散乱し、モアイの本体も頭部が折れたり、土に埋もれたり、風化が進んで崩れたりしているものが少なくない。何もいわずに何百年も土に顔を伏せているモアイの姿は、実に物悲しい。中には子供を表していたかと思われるモアイもあり、尚更不憫に思う。
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その後、モアイ本体の切り出し・加工場となっていたラノ・ララク(Rano Raraku)という山へ。
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岩山が既に半分近く削り取られており、完成したものの行く宛てのなかったモアイが無数に放置されている。運搬途中で放置されたと思われる横倒しのものもあるが、多くは山の斜面に突き刺したように無造作に林立している。
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中には実に巨大なものもあり、最大のものは全長20mを超える。
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さらに石切り場には岩壁を削って造成中のモアイも放置されている。モアイ信仰に基づく社会システムが突如として終焉したことが、いかにもよく伝わってくる。
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山からは、15体のモアイが並ぶ島最大のアフであるアフ・トンガリキ(Ahu Tongariki)が見える。
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四国の大手クレーンメーカー、タダノ社の協力で再建された遺跡である。近づいてみると、実に巨大。今は誰もいないこの島の南東部にも、かつては大きな集落があったのだろう。そこから北に行ったアナケナ(Anakena)ビーチの白砂に立つモアイ群にも同じことを思う。
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狭い島ながら盛衰の歴史があり、悲しいようでも滑稽なようでもある。ビーチでは真っ黒に日焼けした(あるいは元々黒いのかもしれないが)子供たちが元気に泳いでいた。モアイは打ち捨てられたが、海の民として生きる文化・DNAは今も引き継がれているらしい。

村に戻り、一休みした後は、カヤックを借りて海に出てみた。島にこれと言って産業がなく、また周りに島がないため(サンティアゴから西に3,700km、タヒチから東に4,000km、最寄の島まででも415kmも離れている)、海はどこまでも澄んでいる。あまりの碧さに吸い込まれそうになる。場所によっては透明度が40mにも達するらしく、ダイビングを楽しむ人の姿があちこちに見られる。波に浮かんでいると、細かいことが本当にどうでも良くなってくる。これから遥々南米大陸の南端パタゴニアまで旅をしようとしているのが、我ながら信じられなくなったりする。

夜には島に移り住んだフランス人の経営するレストランへ。島一番の高級レストランらしいが、よく繁盛している。でっぷりと太ったフランス人は、島出身の妻に料理をやらせ、自分はホールでゆったりと構えている。気の良さそうな米国人の中年4人組がデザートだけ食べたいといって来店し、「ここはレストランだ。米国ではレストランにデザートを食べに行くのかもしれないが、フランスではレストランは食事をするところだ」とにべもなく追い出されていた。確かに味は良かったのだが、大した生き方である。

宿に帰ると、空は満天の星。よく晴れた空で、前日照り輝いていた月もなぜかなく、文字通り降るような星空である。宿の庭に椅子を並べて、ビールを飲みながら、飽くことなく見上げていた。



* 島民の増加と、モアイを搬送する丸太獲得のための森林伐採により、島の食糧難が深刻化し部族対立が激化、各部族の先祖の霊が宿るといわれるモアイの力を恐れて、抗争の過程で各部族が他部族のモアイを倒していったと言われている。結果として島中のモアイが倒され、また抗争の後に島を支配した戦士階級が鳥人信仰といわれるモアイとは異なるカルトを信奉したため、20世紀に文化保存・観光開発のために復元されるまで、モアイが起こされることはなかったらしい。


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昨日1月10日はただひたすら移動。クスコからリマ経由でチリの首都サンティアゴに入る。チリ人スローン生のAlejandroに紹介してもらったホテルは空港から車で30分ほど走った新市街にある。そこで一泊し、今朝また空港に逆戻り、イースター島行きの飛行機に乗った。再び戻ってくる予定の同ホテルに大半の荷物を残し、身軽な格好でイースター島に迎えたというメリットはあるものの、それだけのために空港-新市街間を往復するのはあまり賢明な選択ではなかったと多少後悔。空港ビル正面に建つ真新しいホリディ・イン・ホテルがその思いを強くした。

ともかく、飛行機は予定通りに離陸し、一路島を目指す。一日一便しかないとはいえ、機体はリマ-サンティアゴ間のそれよりも大きく、新しく、そして混雑している。サンティアゴ-イースター島間の片道6時間のフライトは、LAN航空が独占するプレミアム路線。運賃は、例えばサンティアゴ-ボストン間のそれよりも高い。それがほぼ満員で運行されているのだから、まさにドル箱だろう。Steveは「LANって公開企業かな、株買いたいな」と真剣に呟いていた。

やがて飛行機は着陸体勢に入ったが、窓外には何も見えてこない。島が小さすぎ、また絶海の孤島であるために、いつまでたっても海しかみえないのだろう。そう思っていると、突然陸地が見えた。断崖に囲まれて、いくつかの丘が連なっている。陽気なラテン系の乗客は大興奮。皆それほどまでモアイが見たかったのか。機体は一度島を過ぎ、旋回して着陸した。地上に降り立つと、強い日差しと海洋性の粘着質な空気が身体にまとわりつく。
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平屋の空港ビルを出て暫く待っていると、パティという宿の女性(オーナー?)が迎えに来てくれた。花の首飾りをもらって、トヨタのワゴン車に乗り、宿に向かう。空港から宿までは車で10分ほどの距離。途中、村の「メインストリート」を通る。店が10件ほどあっただろうか。「ここにくれば何でもそろう」とパティが話してくれたが、要するにここしか店がないのだろう。

イースター島は、島民の産業保護のために、島に籍をおかない個人・法人が島に投資することを禁じている。そのため、南の島に必ずと言っていいほどある米系のホテル・グループは立ち入ることができず、宿泊施設は島民の営む民宿か、それに毛のはえたような地元資本のホテルしかない。我々の宿は島に一つしかない村の北外れにある民宿。
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歩いて5分程のところに、モアイが並ぶタハイ遺跡がある。チェックイン後、ここを訪れて初めてモアイ像と対面。アフと呼ばれる祭壇の上に5体のモアイ像が海を背にして並び、丘を眺めて立っている。
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「それだけ」といえばそれだけである。もっとも、遺跡なんて「それだけ」と言ってしまえばすべてそうだし、例えばマチュピチュも山の上に石で作られた町の跡が残っている「だけ」なのだが、それにしてもこのときは、自分でもがっかりするほど、感動が沸いてこなかった。5体並んだモアイ像の周辺には、少し離れてデザインの異なるモアイ像が2体立っているが、それらをあわせても、見て写真を撮って立ち去るだけなら10分とかからない。多少拍子抜けした気分である。

その後、宿で車を借りて、島の西半分を周る。村から内陸に入った丘の上に、海を向いて並ぶ7体のモアイ像が立っている。
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イースター島に初めてやってきた7人の人間(=全島民の祖先)を象徴しているのだとか。島に1,000体近く残るモアイ像のうち、海に向かって立っているのはここだけらしい。これは、通常モアイが海沿いに建設されたアフ(祭壇)を守るために島民の側(つまり内陸側)に向かって立てられたのに対し、ここのモアイのみは島全体を外敵から守るために、島の外(つまり海側)に向かって立っているのだという。潮風に浸蝕された度合いが少ない分、手の造形などがよく保存されている。まあでも、向きが違うだけで要するにモアイでしょ、と言われてしまえば、おっしゃるとおり。ちなみにここのモアイがたつアフの背後で、人骨が多数見つかり、モアイの謎を解く有力な手がかりと注目されたが、イギリス人が運び去ってしまい、今はすべて大英博物館に保管されているらしい。恐るべし、イギリス人。

更に車を走らせると、また海を背にポツンと立つモアイ像を発見。試しにモアイの背後に回りこんで、モアイと同じ角度で丘を眺めてみる。背後に波の音や潮風を受けながら、ずっと丘やそこに暮らす人々を眺めているのは、どんな気分だろうか。
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半日島を周って20体ほどのモアイを見ると、少し飽きてくる。感動レベルも相変わらず低い。しかし夕方(と言っても夜9時頃だが)、最初のモアイ(タハイ遺跡)に戻って、モアイ群とその背後に沈んでいく太陽を眺めていると、静かな感動が湧き上がってきた。マチュピチュで得た感動とはまた違う、切ないような、なんともいえない感傷だったように思う。
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明日、もう一日島を巡る。




ホテルのドライバーを借り切って、この日はクスコ周辺の遺跡をまわる。インカの聖なる谷(Valle Sagrado de Los Incas)とも呼ばれる地域で、標高6,000m級の山々に囲まれた標高3,000m前後の高原に、かつてのインカ帝国時代の遺跡や、当時から続く村々が点在している。首都クスコの後背地として帝国の食糧供給を支え、また周辺民族の侵入を防ぐ軍事的役割も担っていた地域である。作物はトウモロコシや野菜が中心で、植生も日本やアジアの田園地帯とはかなり異なるはずなのだが、田園や緑の山並の風景はどことなく懐かしく、快晴の天気も手伝って非常に清々しい。
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最初に訪れたのは、ピサック(Pisaq)の街。谷間に開かれた田園風景と現在の集落を見下ろすように、遺跡と段々畑が丘の斜面に築かれている。
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マチュピチュに似た石組みの遺跡を散策していると、ガイドを自称する男性に出会う。10ドルで案内させてくれ、と言ってきたが、既に遺跡の半分を見終えていたので、5ドルで残り半分だけ案内してもらうことにする。ただ、ガイドといっても英語が話せるはずもなく、説明は当然のようにスペイン語。それをドイツ人のRobinが、台湾人のSteveと日本人の私のために、英語に訳してくれる。語学の力というのはやはり凄いと、当たり前のことをふと思う。ガイド氏によると、インカ以前の時代には、現在集落が位置する谷底には畑があるだけで人家はなく、人々はみな山の斜面に住んでいたという。他部族の侵入に対する防衛と、水害などの自然災害の回避が目的らしい。斜面の集落は平民と貴族に地区に分けられていて、石組みの精巧さが異なる。確かに貴族が住んでいた地域の石は綺麗に四角く整形されているのに対し、平民地区の石は丸みをおびている。それにしてもよくまあこれだけ石を運んだものだ、と改めて思う。

麓の村には、土産物の市場が開かれている。もともとは地域の交易の場だったらしいが、今はお土産でいっぱいのようだ。リマやクスコの街中で買うよりも品揃えがよく、値段も安い。民俗衣装を着た家族をみかけたので写真を撮ったところ、チップを要求された。チップ払うから正面から写真を撮らせてくれ、と頼むと、きっちり営業スマイル。大したものだ。
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モライ(Moray)という遺跡は、インカ時代の農業試験場の跡。窪地を利用して円形に作られた段々畑で、大きいところでは深さ30mにも達する。最上層と最下層では気温差が摂氏5度以上もあるらしく、そうして創り出されたmicro climateを利用して、それぞれに適した作物を研究していたらしい。インカが山岳農業のプロであったことが良くわかる。
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またその近くにあるマラス(Maras)という町の郊外には、インカ時代以前から続く塩田が今も現役で活躍している。山に湧く高塩分の温泉を棚田に似た階段状の小池に流し込んで、天日で水分を蒸発させて残った塩の結晶を採取する仕組み。山の生活で課題となる塩分の確保のために考え出された方法である。600年以上に渡って拡張が続けられ、今では全長数km、小池の数は4,000近いという。何より、今でも実用に供しているところが凄い。
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最後の訪問地チンチェーロ(Chinchero)に着いた頃には、陽が西に傾き始めていた。かつてのインカの要塞は基礎だけを残して破壊され、その上にキリスト教の教会が建てられているが、インカ時代からの遺構である街の道路には中央に水路が穿たれていて、今でも活用されている。教会前の広場には、ミサが開かれる毎週日曜日に市がたって、現地の人の日常生活を支えているらしい。
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インカ文明の奥深さ、自然の豊かさを堪能し、またインカから現代へと続く人々の生活の繋がりを感じられた、充実した一日となった。

明日からRobinと別れ、チリに向かう。スペイン語の勉強をしなければ・・・。




この日はナスカと並ぶペルー観光のハイライト、マチュピチュへと向かう。クスコから200kmほど離れた山奥の遺跡へは、ペルーの2箇所しか残っていない鉄道で向かう。片道約4時間、71ドル。実はバスで行けばもっと早く、もっと安くいけるのだが、まあそこは風情を買った。完全に観光客ばかりの列車は思いのほかよく整備されていて、シンプルながら朝食まで提供される。まあ71ドルといえば現地の経済感覚では日本でいう2万円くらいの金額なので、食事くらい出ても当然かもしれないが。
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朝6時(今朝も早起き)に出発した列車は、スイッチバックを繰り返しながらクスコ盆地の壁面の狭い斜面を登り、一段高いところに広がる高原を走り抜けて、北流するウルバンバ川に沿って、遠く北部ジャングル地帯へと続く峡谷に入り込んでゆく。途中の高原は、畜農混合の長閑な田園風景。Robinが先日「ペルーでは誰も飢えていない」と言っていたが、この景色をみると納得がいく。人々の様子も穏やかで、決して楽ではないが、のんびりと平和な暮らしが営まれている。
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高度を下げながら峡谷に入り込むと、植生が変わってジャングルのようになってくる。山々も岩肌がむき出しになり、水墨画に描かれた中国の渓谷のよう。沿線に自動車用の道路はなく、鉄道でのみ味わえる風景である。
そして4時間後、予定通りマチュピチュ村に到着。
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あいにく小雨が降っている。村から400m上の尾根にある遺跡へは、シャトルバスで向かう。遺跡の標高は約2,400~2,800m。ちょうど雲の中にあって、風景が霞んでいる。観光客も多く、狭い石畳は滑りやすく、歩くだけでも一苦労だが、ひとまず遺跡の一端にある見張り小屋を目指す。すると、小屋に着こうとする頃、雲がさっと流れ、眼前にマチュピチュ遺跡の全景が姿を現した。息を呑む威容である。小屋の近くの段々畑に腰を下ろして、しばらく雲に洗われる遺跡の全景とその背景の山並を眺める。歴史の重みか、これを作り上げる過程で注ぎ込まれた人の努力の重みがそうさせるのか、染み渡るような感動が沸きあがってくる。
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クスコへの帰りは、行きと同じ列車が折り返しで運行される。途中の車内ではワインが売られたり、アルパカ製品を売るためのファッションショーが行われたりと、乗客を飽きさせず、少しでも収益をあげようと、努力・工夫がなされている。

日暮れ後の午後7時ごろ、クスコに到着。まだお腹の具合が良くないので、夕食はスープで軽めに済ませてホテルに戻り、早めに就寝する。



前日に続いて午前四時起床。米国東部時間とリマは時差がないが、生活時間帯が変わってしまったために時差ボケしたような状態が続いている。未明のリマの街を空港へと向かい、5時40分発の飛行機で、山間部に栄えたかつてのインカ帝国の首都クスコへと向かう。この日からは、前夜夕食を供にしたドイツ人スローン生のRobinも合流し、3人旅となる。ちなみに出発の時間が極端に早いのは、格安航空会社の便を選んだから。ペルー最大の航空会社は、南米最大の航空会社でもあるLAN航空であるが、同社はかつて国営航空会社であったこともあり割高で、特に外国人には極端に高い値段を課してくる。我々が選んだTACA航空は、こうした寡占体制に一石を投じる、南米版Southwest航空。中南米の主要都市間にルートをめぐらせており、私の出身元であるコンサルティング会社のOBも何人か働いているらしい。機内は広く、洗練されていて、サービスも良い。これで格安なのだから、当然のように早朝にも関わらず機内は満席。
離陸後、1時間ほどで、眼下にアンデスの山並が見えてくる。一部雪の残る頂の傍には、ところどころに村落が見える。山の民インカの雰囲気が漂ってくる。
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そして赤茶色の瓦葺の家の数が次第に増え、やがてそれが高原を埋めるように広がってくると、そこがクスコの街である。標高3,400m、海から遠く離れ、地図の上ではとても便利な場所とは思えないこの高原に、なぜインカは首都をおいたのか…、と不思議に感じていたが、飛行機の窓外に広がる恵まれた自然環境を見ると、なるほど、と頷かされた。砂漠ばかりのペルー沿岸部とは異なり、山々は緑が溢れ、川には豊かに水が流れて、山々に囲まれた高原は十分に広い。家々はリマ近郊のような税金逃れの作りかけではなくちゃんと完成しており、作りや色合いに統一感があって街並みも美しい。ちょうど日本で京都の古い街並みを訪れたような、歴史と文化の香りが漂ってきて、観光客心をくすぐられる。
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早速ホテルへのチェックインを済ませて、街歩きを始める。Robinはドイツ人ながらスペイン語が達者なので、宿の手続きや翌日のMachu Picchuへの列車の手配など全て対応してくれて、非常に心強い。お蔭で向こう3日間の観光の準備が手早く済み、ゆっくり街を回ることができた。
散々脅かされた高山病は、MITで処方された薬を前日から予め飲んでいたために苦になるような症状はなかったが、空気が薄いという事実は変わらないわけで、上り坂ではやはりすぐに息が切れる。特にホテルの前が100mほど続く急な坂道で、これが心臓から悲鳴が聞こえてきそうなほどキツイ。地元の子供や、野良犬でさえ、ひょいひょいと登っていくが、こちらはそうはいかない。肩で息をしながら、必死の形相で登らざるを得ない。
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ただ、幸いにも、クスコの街並みは息切れをしても歩くだけの価値のある美しさ。特にインカ時代の石組みで構成された街路、基礎構造物は、想像以上の見事さだった。寸分のスキもなくびっしりと組まれた石は、インカ滅亡から500年近く経った今も、しっかりと人々の往来を支えている。その上に築かれたスペイン風建築との調和の美しさが、逆にインカ滅亡の悲しさを思わせるが、今はもう人々の間にそんな遺恨はないらしい。
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それどころか、彼らの先祖が高地での生活に順応していったように、その時代時代の環境に柔軟に適応するDNAが彼らインディオの血に組み込まれているのかもしれない。今は、夏場の観光客から稼げと、ばかりに、夏休み中と思われる子供たちが朝から晩まで通りで商売をしていた。
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昼食には、クスコ名物のクイ(テンジクネズミ)に挑戦。多少予想していたことではあるが、出てきた料理は、それがネズミであることを迷惑なほど強烈に主張していた。隣のテーブルに座った地元客らしい中年女性の二人組が、こちらをみてはクスクスと笑っていた。「名物」とはいっても、今はみな好んで食べないのかもしれない。
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旅に出ると、食生活の偏りから、ビタミン不足に陥りやすい。そんな人にはフルーツが一番、ということで、Robinが路上で売られている不思議な果物を勧めてくれた。サボテンの一種の実らしい。地元の人はまとめて買い求めていくが、観光客にはその場で皮を剥いて食べさせてくれる。食べてみると、熟れた柿のような食感ながら甘酸っぱく、なるほどビタミンが採れそうな気がした。
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夜もまた、Robinの勧めに従い、メインストリートの屋台で、アンティクチョスという牛の心臓の串焼きを買って夕食とする。ゆでたジャガイモが一つと肉が5切れほど刺さって、一串約50円。なかなかの味なのだが、これがもとで夜中にトイレに駆け込むことに…。加熱しているとはいえ、やはり屋台は注意すべきなのでした。



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Shintaro
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職業:
経営コンサルタント
趣味:
旅行、ジャズ鑑賞
自己紹介:
世の中を素直に見ることが苦手な関西人。
MITスローン校でのMBA、プライベート・エクイティでのインターン、アパレル会社SloanGearの経営、そして米国での生活から、何を感じ、何を学ぶのかー。

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