「 Puerto Rico Trip ...束の間の南国 」
MITでは、スローンを含め、1月に定期の授業を開催していない。
この機を逃すまじ、と、生後1ヵ月半の幼子を連れて、4泊5日の旅程でPuerto Ricoに向かった。
ボストンから直行便で4時間と手頃な時間距離であること、米国自治領で渡航にパスポートやビザが必要でないこと(結果的には間に合ったが、1月ではまだ次女のパスポートが出来ていないリスクがあった)、そして何より暖かい南の島であることが、目的地選択の決め手となった。
特に何をしたというわけでもないが、家族4人ゆっくりくつろげた、良い旅行であった(独身、ないし子なしの頃とは、旅行のスタイルは大きく変わるものだと痛感)。
移動
出発した1月14日(月)、ボストンを未明から大雪が襲った。数日前から警報が出ていたので覚悟はしていたが、早朝5時に起床してみると、やはり結構降っている。インターネットで飛行機の運行情報をチェックすると、ボストンのLogan空港発着の便は次々に欠航が決まっている。我々が利用予定であった航空会社も、9割方の便が欠航になっていたが、我々の便はまだ大丈夫なようだった。
急いでタクシーで空港に向かい、チェックインを済ませる。まだ半信半疑であったが、結局飛行機は予定より1時間遅れで、無事離陸した。
ノーチェックであったが、長女が2歳になったので、この旅から航空機の利用にはチケットの購入が必要になった。それでも、この時期平日発着ならば、Puerto Ricoまでは往復一人280ドル。日本で東京-福岡を往復するよりも安い。むしろ家族で3列シートを占拠できたのは、いろいろと都合が良かった。
利用したJetBlue航空は、10年ほど前に出来た格安航空会社である。米国の格安航空会社の先駆けであるSouthwest航空を模倣しながらも、機内設備を充実させるなどの差別化で成功し、2002年から2007年まで6年連続して米国国内線No.1の評価を得ている。私は今回初めて利用したが、確かに航空機の内装やスナック・飲み物、従業員のサービスなど、決して豪華ではないが、腐りきった他の米国航空会社は言うに及ばず、これまで乗ったどのエアラインと比べても、満足のいくレベルであった。
というわけで、快適な移動でした。
ホテルおよび周辺
Puerto Ricoのホテルは、首都San Juanとその周辺に集中しているが、周辺はCondadとIsla Verde(緑の島)という二つの地区に大別される。我々は後者のIsla VerdeにあるInterContinental Hotelに宿泊した。空港から車で5分程度、San Juanの旧市街までは同じく20分程度の距離にある。
海岸沿いにはリゾートマンションなども多く立ち並んでおり、実は砂浜に直結したホテルは多くないのだが、我々のホテルはプールを経て砂浜に直接出られるようになっていた。追加料金を払って海側で手配した部屋からは、カリブ海が一望できる。
一方、ホテル周辺は、米国資本が跋扈している。通りを見渡すと、ハンバーガー、フライドチキン、ドーナツ、アイスクリームなどのお馴染みのFCチェーンのネオンが無遠慮に並んでいる。
それでも、それらの間に潜むように、土地の人間が通うような店もあり、南国の植物などとともに若干の「異国情緒」は感じられる。
ともかく、海側ではなく陸側の部屋を取っていたら、5日間むさ苦しい景色と対面していたであろうことは、間違いなさそうだった。
旧市街(Old San Juan)
1521年のスペイン人の入植に始まる、島の首都である。もともとはSan Juan Bautistaが島の名前で、Puerto Rico(豊かな港)が街の名前であったが、18世紀頃までにひっくり返ってしまったらしい。
入り江を形成する小半島にスペイン風の街並みがぎゅっと詰め込まれている。外海に向かっては崖、内海に向かっては斜面が緩やかに海に落ち込んでいて、いかにも天然の良港である。
街路は碁盤の目にひかれているが、傾斜が複雑に絡み合い、立体的な街並みを形作っている。パステルカラーの建物はいずれも古い作りだが綺麗に塗装されている。ほとんどの家屋が奥にパティオ(中庭)をもっているあたりも、スペイン風な感じがする。
ところどころ、空家が売りに出されている。駐車場のない街の沿道は、びっしりと路上駐車で埋められている。街の外には、高層マンションが並ぶ。やはり、情緒のある美しい街は、住みにくいのかもしれない。
保育園もパステルカラーである。かつて保育士をしていた妻の影響で、こういう施設には自然と目が行く。こんなところで育った子供はきっと、おおらかな明るい性格になりそうだ。
街並みに混じって、2-3箇所に教会が配置されている。
皆小ぶりでシンプルな作りだが、過剰装飾の大聖堂よりも、街に良くあっている。白壁が青い空に良く映えていた。
小半島の先端は、El Morro(モロ要塞)と呼ばれる要塞になっている。海賊の襲来に備えるため、かつては街全体が要塞化されていたそうだが、今ではこうした海沿いの一部に遺構が残されているに過ぎない。
外海に面してかつての城壁が続いているが、その外側にかつての貧民街や墓地が貼りついて、今ではどこが城壁か一部判然としないまでになっている。それでも、そんな無秩序さも、時間の力か、いまや景観としての一体感を醸している。
Bacardi Rum 本社工場
世界最大のラム酒メーカーであるBacardiの本社工場は、ここPuerto Ricoにある(商法上の本社は租税回避地のBermuda島らしい)。
Old San Juanから船で内海の対岸の町に渡り、車で5分ほど走ると、広大な敷地の工場が見えてくる。
訪問すれば、無料でガイドツアーに参加できる。
Bacardi Rumで作ったカクテルも振舞われる(一人二杯まで)。
明治維新の少し前にキューバで創業されたBacardi社は、いまや年間2億本以上のボトルを世界約200カ国に出荷している、世界でも5本の指に入るスピリッツメーカーである。創業の地はカリブ海をもう少し西に行ったキューバである。19世紀の終わりに米西戦争で敗れたスペインがキューバを「解放(実質的には米国への支配権の委譲)」した際には、キューバを象徴するBacardiのRumと米国を象徴するコーラを混ぜたカクテルであるCuba Libre(キューバの自由)が作り出され、街中で飲まれたという。1960年代にキューバが共産化してからは島内にあるBacardiの資産はすべて国有化されたが、ここPuerto Ricoのほかにフロリダ、メキシコなどで生産を続け、今でもBacardi家所有の非公開企業として、伝統を受け継いでいる。
バーに掲げられたBacardiのボトルを眺めながら、そんな歴史に思いをめぐらせる。
食事
プエルトリコ料理、というのが一応ある。
ほとんどはスペイン料理やポルトガル料理の類似品、亜種だが、オリジナル、とかろうじて言えるようなものもある。
代表的なものはAsapaoと呼ばれる雑炊と、Mofongoと呼ばれるバナナ料理。
特に後者は、青バナナを揚げてマッシュし、肉や魚介類などの具と調味料(塩、にんにくなど)を混ぜて団子状にし、ソースをかけたもので、あまりほかでみたことがない。
ソースを吸収した青バナナのマッシュはしっとりとして、食欲をそそる。塩漬けにされた肉とも良くあう。ビールが進む料理である。
滞在中はこのほかに、米系ファーストフードや中華料理などを食べていたが、最後の夜はホテルに併設された日本食レストランに行ってみた。Momoyamaと名づけられた店は、ガイドブックなどによると「地元でも評判の店」らしい。8月に日本を発ってから、家族で日本料理店を訪れるのは初めてである。しかも失礼ながら、Puerto Ricoである。あまり期待せずに入ってみたが、ある意味で面白い経験ができた。
まず入ると、日本語で「いらっしゃいませ」と声をかけられる。内装は赤が貴重になっており、店の真ん中に鳥居があったり、巨大な壺が置いてあったりする。
鉄板焼きコーナーと寿司コーナーがあったので前者を選択すると、まさに鉄板の前に座らされる。
そして徐に現れた東洋人系のシェフ(明らかに日本人ではない)が、包丁で卵のカラを斬ったり、鉄板の上で肉を「炎上」させたり、上海雑技団ばりの曲芸を繰り広げて、料理を作っていく。居合わせた米国人家族の客は拍手喝采であった。
Beach & Pool
4泊5日の旅程のほぼ毎日、午前中と夕方は砂浜とプールにいた。
幼い子供を二人も連れてはあまりで歩けず、またそれほど各地に見所がある島でもないので、ビーチ・リゾートを楽しむことにした。
砂浜は真っ白ではなかったがそれなりに綺麗で、それほど人ごみもなく、快適だった。
リゾートマンションやホテルが、街と砂浜を隔てている。
長女は砂浜を嫌がった。足が汚れる、という。自分が2歳くらいのころもそんな反応をしたと両親から聞かされていたので、苦笑する。波打ち際の、水分で砂が固まったあたりでは、何とか一人で歩いていたが、波打つ海に入ってくほどの度胸はなかった。何度か興味に負けて海に近づきはしたが、たまに大きい波が来て身体に叩きつけられると、そのたびに泣いて退散していた。
結局、砂浜に彼女の大好きなアンパンマンの絵を描くのが関の山であった。
そうした間、次女はビーチベッドに敷いたタオルの上で、風にそよがれていた。まあ、間違いなく何も覚えていないだろう。
海や砂浜を嫌がった長女も、プールにはある程度積極的な姿勢をみせた。欧米人はプールといってもプールサイドで寝そべって日光を浴びるのが主目的なので、水の中にはほとんど誰もいない。身体を支えながら水泳の真似事をさせると、かなり喜んでいた。
一日の最高気温が27度ほどで、水温も若干低いので、プールと、すぐ横に設置されたジャグジーとに交互に入りながら過ごす。
水に入っている以外は、プールサイドで本を読んだり、寝転がったりと、骨休めに徹した。
かつてベトナムのリゾートに行った際は、食あたりで高熱を出してベッドから動けなかったが、今回は十分に満喫できた。4泊5日という期間もちょうどよかった。性格上、流石にあと2-3日いたら、飽きていただろう。
カリブ海の島の、平和な休日であった。
この機を逃すまじ、と、生後1ヵ月半の幼子を連れて、4泊5日の旅程でPuerto Ricoに向かった。
ボストンから直行便で4時間と手頃な時間距離であること、米国自治領で渡航にパスポートやビザが必要でないこと(結果的には間に合ったが、1月ではまだ次女のパスポートが出来ていないリスクがあった)、そして何より暖かい南の島であることが、目的地選択の決め手となった。
特に何をしたというわけでもないが、家族4人ゆっくりくつろげた、良い旅行であった(独身、ないし子なしの頃とは、旅行のスタイルは大きく変わるものだと痛感)。
移動
出発した1月14日(月)、ボストンを未明から大雪が襲った。数日前から警報が出ていたので覚悟はしていたが、早朝5時に起床してみると、やはり結構降っている。インターネットで飛行機の運行情報をチェックすると、ボストンのLogan空港発着の便は次々に欠航が決まっている。我々が利用予定であった航空会社も、9割方の便が欠航になっていたが、我々の便はまだ大丈夫なようだった。
急いでタクシーで空港に向かい、チェックインを済ませる。まだ半信半疑であったが、結局飛行機は予定より1時間遅れで、無事離陸した。
ノーチェックであったが、長女が2歳になったので、この旅から航空機の利用にはチケットの購入が必要になった。それでも、この時期平日発着ならば、Puerto Ricoまでは往復一人280ドル。日本で東京-福岡を往復するよりも安い。むしろ家族で3列シートを占拠できたのは、いろいろと都合が良かった。
利用したJetBlue航空は、10年ほど前に出来た格安航空会社である。米国の格安航空会社の先駆けであるSouthwest航空を模倣しながらも、機内設備を充実させるなどの差別化で成功し、2002年から2007年まで6年連続して米国国内線No.1の評価を得ている。私は今回初めて利用したが、確かに航空機の内装やスナック・飲み物、従業員のサービスなど、決して豪華ではないが、腐りきった他の米国航空会社は言うに及ばず、これまで乗ったどのエアラインと比べても、満足のいくレベルであった。
というわけで、快適な移動でした。
ホテルおよび周辺
Puerto Ricoのホテルは、首都San Juanとその周辺に集中しているが、周辺はCondadとIsla Verde(緑の島)という二つの地区に大別される。我々は後者のIsla VerdeにあるInterContinental Hotelに宿泊した。空港から車で5分程度、San Juanの旧市街までは同じく20分程度の距離にある。
海岸沿いにはリゾートマンションなども多く立ち並んでおり、実は砂浜に直結したホテルは多くないのだが、我々のホテルはプールを経て砂浜に直接出られるようになっていた。追加料金を払って海側で手配した部屋からは、カリブ海が一望できる。
一方、ホテル周辺は、米国資本が跋扈している。通りを見渡すと、ハンバーガー、フライドチキン、ドーナツ、アイスクリームなどのお馴染みのFCチェーンのネオンが無遠慮に並んでいる。
それでも、それらの間に潜むように、土地の人間が通うような店もあり、南国の植物などとともに若干の「異国情緒」は感じられる。
ともかく、海側ではなく陸側の部屋を取っていたら、5日間むさ苦しい景色と対面していたであろうことは、間違いなさそうだった。
旧市街(Old San Juan)
1521年のスペイン人の入植に始まる、島の首都である。もともとはSan Juan Bautistaが島の名前で、Puerto Rico(豊かな港)が街の名前であったが、18世紀頃までにひっくり返ってしまったらしい。
入り江を形成する小半島にスペイン風の街並みがぎゅっと詰め込まれている。外海に向かっては崖、内海に向かっては斜面が緩やかに海に落ち込んでいて、いかにも天然の良港である。
街路は碁盤の目にひかれているが、傾斜が複雑に絡み合い、立体的な街並みを形作っている。パステルカラーの建物はいずれも古い作りだが綺麗に塗装されている。ほとんどの家屋が奥にパティオ(中庭)をもっているあたりも、スペイン風な感じがする。
ところどころ、空家が売りに出されている。駐車場のない街の沿道は、びっしりと路上駐車で埋められている。街の外には、高層マンションが並ぶ。やはり、情緒のある美しい街は、住みにくいのかもしれない。
保育園もパステルカラーである。かつて保育士をしていた妻の影響で、こういう施設には自然と目が行く。こんなところで育った子供はきっと、おおらかな明るい性格になりそうだ。
街並みに混じって、2-3箇所に教会が配置されている。
皆小ぶりでシンプルな作りだが、過剰装飾の大聖堂よりも、街に良くあっている。白壁が青い空に良く映えていた。
小半島の先端は、El Morro(モロ要塞)と呼ばれる要塞になっている。海賊の襲来に備えるため、かつては街全体が要塞化されていたそうだが、今ではこうした海沿いの一部に遺構が残されているに過ぎない。
外海に面してかつての城壁が続いているが、その外側にかつての貧民街や墓地が貼りついて、今ではどこが城壁か一部判然としないまでになっている。それでも、そんな無秩序さも、時間の力か、いまや景観としての一体感を醸している。
Bacardi Rum 本社工場
世界最大のラム酒メーカーであるBacardiの本社工場は、ここPuerto Ricoにある(商法上の本社は租税回避地のBermuda島らしい)。
Old San Juanから船で内海の対岸の町に渡り、車で5分ほど走ると、広大な敷地の工場が見えてくる。
訪問すれば、無料でガイドツアーに参加できる。
Bacardi Rumで作ったカクテルも振舞われる(一人二杯まで)。
明治維新の少し前にキューバで創業されたBacardi社は、いまや年間2億本以上のボトルを世界約200カ国に出荷している、世界でも5本の指に入るスピリッツメーカーである。創業の地はカリブ海をもう少し西に行ったキューバである。19世紀の終わりに米西戦争で敗れたスペインがキューバを「解放(実質的には米国への支配権の委譲)」した際には、キューバを象徴するBacardiのRumと米国を象徴するコーラを混ぜたカクテルであるCuba Libre(キューバの自由)が作り出され、街中で飲まれたという。1960年代にキューバが共産化してからは島内にあるBacardiの資産はすべて国有化されたが、ここPuerto Ricoのほかにフロリダ、メキシコなどで生産を続け、今でもBacardi家所有の非公開企業として、伝統を受け継いでいる。
バーに掲げられたBacardiのボトルを眺めながら、そんな歴史に思いをめぐらせる。
食事
プエルトリコ料理、というのが一応ある。
ほとんどはスペイン料理やポルトガル料理の類似品、亜種だが、オリジナル、とかろうじて言えるようなものもある。
代表的なものはAsapaoと呼ばれる雑炊と、Mofongoと呼ばれるバナナ料理。
特に後者は、青バナナを揚げてマッシュし、肉や魚介類などの具と調味料(塩、にんにくなど)を混ぜて団子状にし、ソースをかけたもので、あまりほかでみたことがない。
ソースを吸収した青バナナのマッシュはしっとりとして、食欲をそそる。塩漬けにされた肉とも良くあう。ビールが進む料理である。
滞在中はこのほかに、米系ファーストフードや中華料理などを食べていたが、最後の夜はホテルに併設された日本食レストランに行ってみた。Momoyamaと名づけられた店は、ガイドブックなどによると「地元でも評判の店」らしい。8月に日本を発ってから、家族で日本料理店を訪れるのは初めてである。しかも失礼ながら、Puerto Ricoである。あまり期待せずに入ってみたが、ある意味で面白い経験ができた。
まず入ると、日本語で「いらっしゃいませ」と声をかけられる。内装は赤が貴重になっており、店の真ん中に鳥居があったり、巨大な壺が置いてあったりする。
鉄板焼きコーナーと寿司コーナーがあったので前者を選択すると、まさに鉄板の前に座らされる。
そして徐に現れた東洋人系のシェフ(明らかに日本人ではない)が、包丁で卵のカラを斬ったり、鉄板の上で肉を「炎上」させたり、上海雑技団ばりの曲芸を繰り広げて、料理を作っていく。居合わせた米国人家族の客は拍手喝采であった。
Beach & Pool
4泊5日の旅程のほぼ毎日、午前中と夕方は砂浜とプールにいた。
幼い子供を二人も連れてはあまりで歩けず、またそれほど各地に見所がある島でもないので、ビーチ・リゾートを楽しむことにした。
砂浜は真っ白ではなかったがそれなりに綺麗で、それほど人ごみもなく、快適だった。
リゾートマンションやホテルが、街と砂浜を隔てている。
長女は砂浜を嫌がった。足が汚れる、という。自分が2歳くらいのころもそんな反応をしたと両親から聞かされていたので、苦笑する。波打ち際の、水分で砂が固まったあたりでは、何とか一人で歩いていたが、波打つ海に入ってくほどの度胸はなかった。何度か興味に負けて海に近づきはしたが、たまに大きい波が来て身体に叩きつけられると、そのたびに泣いて退散していた。
結局、砂浜に彼女の大好きなアンパンマンの絵を描くのが関の山であった。
そうした間、次女はビーチベッドに敷いたタオルの上で、風にそよがれていた。まあ、間違いなく何も覚えていないだろう。
海や砂浜を嫌がった長女も、プールにはある程度積極的な姿勢をみせた。欧米人はプールといってもプールサイドで寝そべって日光を浴びるのが主目的なので、水の中にはほとんど誰もいない。身体を支えながら水泳の真似事をさせると、かなり喜んでいた。
一日の最高気温が27度ほどで、水温も若干低いので、プールと、すぐ横に設置されたジャグジーとに交互に入りながら過ごす。
水に入っている以外は、プールサイドで本を読んだり、寝転がったりと、骨休めに徹した。
かつてベトナムのリゾートに行った際は、食あたりで高熱を出してベッドから動けなかったが、今回は十分に満喫できた。4泊5日という期間もちょうどよかった。性格上、流石にあと2-3日いたら、飽きていただろう。
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MITスローン校でのMBA、プライベート・エクイティでのインターン、アパレル会社SloanGearの経営、そして米国での生活から、何を感じ、何を学ぶのかー。
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